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風の谷〜泰阜村
 「第18回車椅子レクダンス全国大会inやすおか」顛末

 平成27年9月19日に人口1700人、そのアクセスの悪さから東京から最も遠い島と呼ばれる過疎山村泰阜村で「第18回車椅子レクダンス全国大会inやすおか」が開催され、全国各地から151名の村外の障害者を含む参加者を迎え、18日の前夜祭、20日の離村式・観光を終え無事閉会した。
 

 この小さな施設支部「悠々」理事長は、長野県で初めて車椅子レクダンスを導入し(2011年)県でただ一つの支部であるという因縁で、今回の実行委員長を拝命することとなった。振り返れば今回のこの大会は、3人の個性あるリーダーたち(NPO法人車椅子レクダンス普及会理事長、泰阜村村長、高齢者協同企業組合理事長)がそれぞれの立場で力を合わせ?、知恵を凝らしてやり遂げた奇跡のような大会であったということが出来るのではないかと思い、その顚末について整理してみることにした。
 そもそも今回の実行委員長を拝命した地域交流センター「悠々」(村民から悠々と呼ばれている)は、会員数20数名で発足(2013年)したばかりの小さな支部(泰阜村悠々支部)である。2013年、悠々にはじめて視察に来られたNPO法人車椅子レクダンス普及会黒木実馬理事長が「2015年の全国大会・長野大会は、この泰阜村でやりましょう!」と言われた際には、「え!全国大会って何のことですか」というのが、その際対応した悠々理事長本田の驚愕に満ちた答えであった。「それは無理です。人口1700人、高齢化率39%、山野率90%、協賛金を当てにできるような企業無し、借金の多さで倒産寸前全国第9位の自治体と新聞に取り上げられたこの貧しい村に、全国から集まってくる障害を持たれた参加者を含む300人を超える人々が輪になって車椅子ダンスを踊るということは、不可能です」とはっきりお伝えしたはずであった。しかし黒木理事長の第一声は「大丈夫です。できます。何も心配いりません。全国で初めての素晴らしい大会をしましょう!」がその答えであった。ちなみに後で知りえたことであるが、この理事長、防衛大学校卒後大佐まで務めた精鋭の軍人であったが、早期退職後社会福祉協議会職員を経て、車椅子レクダンスを考案され、各地の障害者施設で障害を持たれた方々に笑顔をとどけるボランティア団体「NPO法人車椅子レクダンス普及会」を設立され、北海道から沖縄までの支部402、NOP法人が養成したインストラクター数9800名(2015年現在)に上るという。その支部会員の方々が、南信州の過疎の山郷にやってくるということは、泰阜村に住む者にとっては考えられない無謀ともいえる暴挙であった。
 悠々支部自身も立ち上がったばかりの支部で、日々己の企業を維持するのが精いっぱいの状況下であったが前に進むしかなかった。(後に理事のお一人に伺ったところによると、「そんなことできません。支部を退会します。と言えばよかったのよ」と聞いて絶句し、「でも、車椅子レクダンスが持っているこの魅力を手放せませんでした。お年寄りが、子供たち(中学生)が、あんな笑顔で楽しくてたまらないという顔をして、副村長や議員さんや、日頃お世話になっているヘルパーさんたちと、共に手を取り合って踊るこの楽しさを手放せなかったのです。」とつぶやくしかなかったのだった。
 無謀ともいえる決意を秘めて、まず村長にアポイントを取り、車椅子レクダンスの意義、その楽しさがもたらすであろうこの村へのメリット、しかし同時に全国大会の開催は、開催地域のボランティアと地域企業からの協賛金によって維持されてきたこと等を伝えた。村長の心は「在宅福祉の村」での開催地に選ばれた誇りと、同時にその頭の中には、協賛金など捜しようもない貧しい村の人々の顔と、村の税金を使うことに猛反発を唱えるであろう議会の情景が目に浮かんだであろうことが推察された。国道はなく、唯一の村道は大型バスが入れない山道が多く、全国からそして韓国から訪れる何百人という(障害者を含んだ)お客様をどうお迎えするのか、苦慮されていることがわかった。そのため即答は頂けず、職員を2013年福岡大会に一人、2014年福島大会に二人派遣しその報告を聴取した上で可能性について検討し、GOサインが出たのは実に2014年12月であった。お金がないという点については、NPO本部理事長が様々な補助金を申請されたが、どれもダメで最後の手段として思いつかれたのが「レディフォー(クラウドファンディング)」という「趣旨:泰阜(やすおか)村全国大会に向けて、車椅子の方達を名古屋から泰阜村にご案内するための大型リフトバスの借り上げ料の不足金40万円をネットで募る」という方法であった。これにより、リフター付き大型バスでJR名古屋駅&中部国際空港からのお客様を、泰阜村の会場までお連れすることが可能となった。この時点で村長の号令一過、村を上げて村の事業として取り組む(補助金は村が出す)ことが決定し、一気に前に進み始めたのが5月の実行委員会であった。開催まであと4ヶ月、頼りない一支部の理事長の肩から、村の行政組織が重戦車のごとく動き出した。本田がやったことと言えば、実行委員会の進行にむけて関係調整し、一歩一歩前に進むことを願って走り回ったことぐらいであった。特に年間行事に押しつぶされそうになっている新任の中学校教頭先生にご説明し、生徒たちを大会に合わせて車椅子レクダンスのインストラクターとして準備することを渾身の願いを込めてお願いし続けたことである。これには、第一に全国レクレーション大会は文部科学省の管轄であること、それ故中学校は無関係というのはないのではないか?とのあつかましい説得と、中学生は泰阜村にとって最も重要な村民であり、村の事業として取り組まれるこの事業への参加は「村役」と受け取っていただきたいなどという、前代未聞のあつかましさで説得したことである。実際この村でボランティアに参加する余裕のある村民は、お年寄りと中学生以外にはいないのだから・・・。こうして、村の職員総勢44名+社協職員20名+悠々スタッフ12名+泰阜村中学校生徒38名・教員6名+観光物産展スタッフ10名+手作り昼食担当(五平餅・アマゴの塩焼き・猪鍋他)20名等+当日参加者・・・・・
 

 大会前日の18日は、早朝より村の職員全員で、参加者が到着する前に会場準備をすべて終え、施設訪問(特養泰阜荘)で泰阜村のお年寄りを大喜びさせ、その後に続く前夜祭は、当初の予定を20人も上回るお客様で会場は大混雑したが、泰阜大会は村長をはじめ村を挙げてのおもてなしとなった。
 大会当日19日は国会議員、県会議員の先生も来賓としてご出席を賜り、村民は一層元気を頂き嬉々としておもてなしを楽しんだ。大会宣言、来賓あいさつ等のあと泰阜村の伝統行事・やすおか太鼓演奏によるおもてなしで開会となった。
 村を上げて、村民の心が一つになって遠方より来村してくださったお客様をもてなすことは、こういうことなのだと皆は感じてくださったであろうか。参加者の言葉がそれを雄弁に語っているのかもしれない。
 

☆この中学生の笑顔、泰阜中学生のあの素直な楽しそうに踊っている姿を見たことは一度もありません。私たちの地域では不可能です。
☆村を上げて私たちをもてなしてくれたなどということをこれまで一度も経験したことはありません。
☆村中のお年寄りも壮年のスタッフも、子供たちも、村の村長も議員さんも共に手を取り合ってこんなに楽しそうに踊っている光景に感動しました。泰阜村以外でこんな姿をみることは決してないと思います。

 秋の日差しの中で「第18回車椅子レクダンスinやすおか」が多くの人々に感動を与えて閉会した。
 

風の谷〜泰阜村    
   森と清流と生き物たちが住んでいるふるさとへ帰っておいでよ!

 所用でここ1か月ぐらい熱波の吹き荒れる関東(東京、埼玉、神奈川)を往復した。
朝晩は戸を閉め、長袖のパジャマを着て夏布団を掛けないと、翌日は鼻水が出ているという涼しさが当たり前の信州から出ていくと、大都会のこの暑さは尋常じゃないと感じる。歩道を歩いていると、フライパンの上を歩くとはこうゆうことかと感じるほど照り返しが強く、熱風が吹きつけるのでその根元は何処かと目をやれば、一軒一軒のお店に取りつけてあるクーラー室外機がすべて(当然のことながら)歩道側に向けてある。マンションを見上げれば、ベランダには各階ごとに一列に並んだ各部屋のクーラーの室外機が歩道側を向いて設置されている。そこをベビーカーでぐったりしている赤ちゃんを乗せたママたちが、日傘をさして往き来している。地上50センチのところは55℃の暑さだというのに・・・・。昼間はみんな涼しい家の中にいるから、誰からも文句が出ないのだろうけれど、これってやっぱり異常じゃない?と考え込んで帰路に就く。
信州の住民からみて考えさせられたこと。
.┘優襯ーの使い方・・・?⇒やっぱり原発?ってのはおかしいんじゃない?
∪痢併匐,里海蹇⊂赦20年代)夏休みは塾ではなく、家族そろって避暑に出かけたもんだったなぁ〜。
今は朽ち果ててしまったけれど、お隣のおばあちゃん(もうすでに鬼籍に入られた)は、毎年避暑に来る学生さんの寮を嬉々として切り回していたっけなぁ〜。
づ垈颪亙慷(コンビニは信号ごとにある、バスは2分間隔でやってくる、お買い物も便利グッズで目を奪われるほど・・・)だけれど、それはお金のある人の話で、貧しいサラリーマンたちは(想像だが)こんなに便利な街はべつに必要ないんじゃないか?と思った。
 夏になったら、子供たちはお母さんと一緒に緑の森と清流で遊ばないか?昔、おばあちゃんやおじいちゃんたちが汗をかきながら、夏野菜を作って孫たちが帰ってくるのを待っていたように、今も笑顔で待っている避暑においでよ!
 クーラーがなくても、大自然の中で走り回って遊べるような田舎の年寄りの懐に子供たちをよこしてください!お母さん、あなたもご一緒に!

 8月6日 70年前の今日、原子爆弾で亡くなられたすべての御霊にあつくお礼を申し上げます。日本の繁栄は、貴方たちの流した血と苦しみの犠牲の上に頂いたものです。有難うございます。今も私たちは、貴方たちのことを忘れません。 合掌

風の谷〜泰阜村     
     後期高齢者医療を想う

先日の村役のあと体調を崩し、関東の某病院の循環器科を受診した。
 ペースメーカー埋め込み術適応といわれて15年、「人間は寿命が来たら死ぬのだ」との自己流信念のもとに生きてきたが、74歳4ヶ月を過ぎ、先日の自分には結構過酷であった村役の後、生活道路である坂道が登れなくなり、階段は5段で息切れがひどく、泰阜村の最低のノルマである村役をこなして生きていくのが難しくなった。肝心な「悠々」も道半ばである。
 そこで自己流信念がクラと揺らぎ、ペースメーカーとかいう現代の医療機器に頼ってでも、もう少しだけこの村の住民として元気な体を取り戻したかった。
 チラと年齢を見ながら初診で言われたこと。「う〜ん。ペースメーカー入れてまで頑張る年じゃないんじゃない。自分の心臓にあわせてもっと楽に暮らせるところに引っ越してゆっくりしたら?」言葉は優しげに聞こえた。先生は、この年寄りを思いやってくださったのがわかる。しかし私は抵抗した「でも、坂道だらけの村で仲間と一緒に村役をして最後まで暮らしたいんです。それにお預かりしているお年寄りを最後まで面倒を見てあげたいんです」先生は「74歳なんでしょ。自分の限界ってものがあるんじゃない?」と引退をほのめかされたんだと感じ「う〜ん、そうですね」と口ごもり、おっしゃる通りなんだけど私の頭には、自分が後期高齢者寸前なのだという現実を突きつけられたと感じた。これは日本の高齢者に対する厳然たる政策でもあることを。わが身に降りかかって愕然とした。山国にとっては70代が村役(山と川の緑と水を守る作業)の現役だってことを、政策立案現場では誰も知らない。私が外見からは溌剌とした元気ばあちゃんに見えても、炎天下を5km〜10kmの坂道の整備作業の途中で、時に意識が遠くなることをだれも理解しない。みんなみんな足腰を引きずりながら年に5,6回のこの作業のほかに、自前の広大な草だらけの田畑と庭の草刈を抱えていることを・・・。何の役に立っているとは思わないけれど、手を動かして皆と一緒について歩く年寄りの誰一人かけてもこの村では痛手なのだ。その人がいなくなるということは、その作業が自分の肩にかかってくることを知っているからだ。この村の人たちは一人一人を大切に思っている。みんなが力を合わせてこの村を守っていると知っているからである。村の絆は情として体でわかるものである。     
 さて、後期高齢者は、ペースメーカー入れずに死を覚悟するしかないのか。人が,手が一つなくなると部落の仲間が困るだろうな。だって山と水の整備がそれだけ厳しくなるものな。人よりも動物の勢力の方が勝っているこの山里で、人一人の重さがとてつもなく大きいことを、政策立案者は知らないと思う。
 私の通院のことをどこかで知った仲間が、もうお見舞いと言って野菜を届けてくださった。「必ず自分で食べてくれ」と言い残して。この心を知って私は涙を抑えられない。これほどの愛を受けてもう少しこの山里で、仲間と共に汗をかきながら生きていたい!泰阜の村民として生きていたい!私はこの緑の森の中で生きていたい!
    

風の谷〜泰阜村    
    悠々変身!

泰阜村の里山の春が進み、棚田には小さな緑の早苗が命の根を下ろした。
桜が散り、黄色の山吹が散り、紫色のフジの花が里山の荒廃を明かしている。そのず〜と山深くに、山法師が小さな緑色の花芽を伸ばした。緑が深くなったころ、緑の洪水のなかに人知れず真っ白な花を開く。足下には笹百合がすくっと背をのばし次の順番を待っているかに見える。どのようなことが人間世界で起こっていても、泰阜の自然は、定められたようにその営みを止めない。

 12年ぶりと言われる村会議員選挙が終わり、新議員もあらたに加わって泰阜村にも新たな風が吹くような気配。
泰阜村悠々も地方創生と銘打って、根本的なサービスの転換を行うことにしている。
 その一つは、10戸ある個室の内2戸の民宿を除き、永住入居者が占めていた部分8戸をサービス付き民宿に転換していこうというものである。この根拠は、先の泰阜村調査で「泰阜村民は、施設で死ぬことを望まない!」と言う結果が明らかになったことである。これを徹底的に応援したい!もちろんターミナルの場としての短期入居もあるものの、基本的には家族のケアが必要になった時だけ、お手伝いするという原則である。
 今、入浴サービスを利用している94歳の翁が通っておられる。基本的には在宅であるが、多忙を極める息子夫婦の日中独居を、週4日のデイサロン(孫が送迎)にのんびり通い、残り2日を悠々の入浴サービスを利用している。家族がお休みの日は自宅で家族のケアを受けている。この悠々での一日は午前10時ごろに息子に軽トラックに乗せて連れてこられると、皆と一緒に30分ほどよもやま話をしながらお茶をし、昼食まで個室のベットで休憩する。12時の昼食に起こされてこれもよもやま話に参加しながら1時間半ほどかけて普通食をゆっくりとられる。その後またベッドで休憩し1時間半後にはまたまたお茶のために起こされる。彼は悠々に来はじめのころは車椅子移動であったが、今は短い距離なら杖、安全のため歩行器(本人はこれがいたく気に入っている)で独歩可能になった。お食事もゆっくりではあるが、入居者の半量ほど食べられるようになった。その後ベッドで休憩の後30分ほどかけて入浴、その後3時のお茶、休息後家族のお迎えがあるまで休んでおられる。時に家族は急な用事で夜7時ごろまでお迎えに来れない時があるが、それも安心、悠々では、家族が安心して仕事を全うできるようにお迎えの時間を決めていない!
本人も悠々がいたく気に入っておられるとのことである。「悠々は優しいからいい」との声が聞かれた。
 今日は家族の仕事が早朝から夜半まで続くとのことで、お泊りを引き受けた。本人も悠々でののんびりしたケアを気に入っているようだ。最後に悠々では1日5回の食事やお茶で自室から出入りする際に、必ず「ちょっとトイレに寄っていきますか?」と声掛けする。ズボンやリハビリパンツの上げ下ろしに手を添えれば、トイレで用を足すことができる。だからいつもお尻は清潔で人間らしく尊厳を保つことができる。
 この94歳のM翁の楽しみは、夜家族がそろって夕食を囲むとき、自分もともに晩酌を楽しむことだそうである。この楽しみを彼の死まで確保できるように応援したいのである。
 悠々では今老衰と診断されターミナルケアに入っているお年寄りを抱えている。(彼は75歳の誕生日に遺言状で尊厳死を宣言している)特別なことは何もしていない。血は繋がっていないけれど、97歳、十分に働かれた人生の最期であろう時を、4年も同じ屋根の下で寝食を共にした家族同様の仲間が心を寄せて一緒にいる。今は入居費の不足分を家族が補わなければならないけれど、家族も社会のためにと貴い仕事をして頑張っている。
 共に、社会のためにと悠々が少しでも役に立つことができれば、こんな幸せはないと思う。
 

風の谷〜泰阜村
医療・福祉・政策を結ぶ「えにしの会」に参加して

 東京で「えにしの会」に参加する機会を得た。北海道の果てから九州の隅々まで多くの選りすぐられた専門家が集まっていた。設立から18年、立ち上がった時には5000人の賛同者で始まったというこの会は、今では有に1万人を超すということであった。
 発案者はその道で知らぬ人はいないといわれる大熊由紀子さん。この方の声掛けで集まった人は400人超、厚労省局長、大学研究者をはじめ、それぞれの地で果敢に挑戦し医療・福祉(介護)・政策を実践している方々が熱く語り合った宵であった。東京には偉大な方がいるものだとすっかり感動して、片田舎でリハビリ医療のソーシャルワーカーが始めた試みはどうかと問い直された一時であった。
 僻地医療の(この日は夕張市立診療所)実践、都会での福祉施設の実践、そのすべては時々に移り変わる医療・福祉施策を利用しながらも、カリスマ的リーダーが知恵を振り絞って、その地でしかできない新しいサービスを作り出しているものに他ならなかった。集まったすべての人が、おそらくは血のにじむような努力のもとに勝ち得たであろう今を伺いながら、始まったばかりの「悠々」のことを想った。何十年後には我らが「悠々」は、この地に根図いて村の人々の力になっているだろうかと。考えながら帰途についた。
 留守中に泰阜自慢の桜並木は葉桜に代わり、辺り一面浅黄色に包まれた里山に迎えられ、「う〜んたまらないね、泰阜!」と一気に緊張していた身も心もほどけていくのが感じられ、大切な感動は胸の奥深くに納めて、早速、留守中の「悠々」のたまっていた仕事に休む暇もなく振り回されて、理事長の一日が終わった。
 この研修で私は何を得たのかを振り返ってみると、発表者の笑顔が、その事業、その研究が成功しているかどうかの決め手であることに気づかされた。心あるものが(立場上仕方なしに仕事として背負った役場職員もいるが)始めた医療・福祉の研究や事業は、本当に人々に必要とされたものでかつ、それにピタリと寄り添っているもの以外は、住民は乗ってこない、・・・つまりは税金の無駄遣いに違いない。そんなものが目に余るほどあるには違いないが、でも「えにしの会」で出会った光り輝く笑顔で語られたその人々に出会って、「この人々がいる限り、日本は大丈夫だ!」と確信した。
 日本が平和でいる限り、戦争に突入しない限り、日本は大丈夫だ。戦争以外ならどんなことが起こっても、日本の人々は知恵を振り絞り、人生をかけて国民のため、目の前にいる人々のため、救いの手立てを考え実行してくれる人がいるのに違いないのだ。
 これが「えにしの会」に参加して得た宝である。
 この会を主宰してくださった大熊由紀子様はじめ裏方で汗を流されたスタッフの皆様、本当に本当に有難うございました。
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