風の谷〜泰阜村
「生きた憲法25条」
久しぶりに「悠々」に戻った。平熱に下がり時々咳がコホンと出るが、厳重なマスクをして入居者の顔を見て歩いた。私より2~3日インフルエンザ罹患の遅かった90代ご夫婦は、まだ自室に隔離されたままであったが、それ以外は病を抱えておられるものの、いつも通りの顔で、「ほんに久しぶりだな、心配しておったで、私らより先に往かれたらどうしようかと思っていた」と次々とお見舞いの言葉を頂いて胸が熱くなった。この私の身を本当に心配してくれていたのは、この年寄り達であったのだと、あらためて管理者としての健康管理が、お年寄りたちの安心にこれほど重いものであったのかと、肝に銘じたことであった。
肝心な給料支払いなどの事務作業は、病を抱えた年寄りたちの通院介助等に振り回されながらのケアの合間に、スタッフが片付けていてくれたし、来所者たちの「ご馳走賄担当」スタッフがともに倒れて欠落した戦場のような悠々を、身を粉にして無事に動かしてくれた我がスタッフに感動した。そこには入居者に対する愛と責任感という「プロとしての矜持」を見た感がある。
10日間ただ、ただ寝ているだけの時間を頂いて、熱で朦朧となった頭で、この先の「悠々」はどうあるべきかについて考えていた。「もし自分がこのまま死んでいったとしたら、何を残したいのか」をただひたすら考えていた。
そこで一つの結論が突然ふっと浮かび上がってきた。
「生きた憲法25条」!
そうだ,そうなんだ。私は現在75歳(昭和16年2月生)、戦前生まれの生き残りの最前線にいる人間なのだ。昭和19年に満州から着替え一つで引き揚げてきて、3歳になったばかりの私は、親戚の家をたらいまわしされながら、高射砲のある軍事基地を抱えた静岡県浜松で戦火の中を逃げ惑った。3歳だというのに、畑の中で死んだふりをしていろと言い聞かされて、畝のなかに身を伏せながらそっと目を上げたとき、機銃掃射を撃ってくる戦闘機の兵隊さんと目が合った。笑いながら ダダダと撃って飛んで行ったその目を、72年経った今も鮮明に思い出す。戦後は草を食べていた。サツマイモのツルはご馳走だった。捕虜に取られたまま帰らない父を待って、借りた農地を農作業に慣れない母を手伝ってただ食べる為だけに死に物狂いで働いていた。(糞尿の入った肥桶を母と担ぐと、肥桶は小さな私の方に偏って、その飛沫がかかっていたことを忘れない・・・)
普通の国民は、戦争に負けてすべてを失った。しかしそこには、土地を持つものと持たないものの格差がまずスタートとしてあった。戦後の復興とはまず経済復興であった。これに文句を唱えるものはだれもいなかったはずだ。しかし戦争で財を成しているものがいたことを、国民は知らなかった。その隠れていた財閥が戦後の復興を牽引して富国(強兵)にまっしぐらに突き進んで戦後70年が経った。
あの世界大戦は、日本国民に何をもたらしたのか。
バブルの時代に生活が便利になった一時は確かにあった。しかしそのバブルはすぐにはじけて、国民の間にどんどん格差を広げた。今、過疎山村が産み育てて都会の工場に送り出した子供たちが定年になって、労働年齢からはじき出されようとしている。その年寄り達を養えないという。消えた年金のことはもう言うまい。
先の戦争で国民が手にしたたった一つの宝物のことを、改めてここに示したい!私は、この憲法を実現するために国民の一人として命を懸けている。「生きた憲法25条」でありたい!と願っている。
みんな思い出して!
聞いたこともないよという若者たちは耳を澄ませて胸に刻んで!
憲法25条とはこのようなものなのだよ。国はこの憲法を守る義務があるのだよ。これが戦争で国民が勝ち得た宝なのだよ!
日本国憲法第25条(昭和二十一年十一月三日憲法発布)
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない
私は終戦の3カ月前(1945年5月22日)に生まれましたので、戦後の混乱を意識することはありませんでした。本田さんの生々しい記憶は、私の想像をはるかに超えるものです。言葉もありません。
今回のブログ熟読しました。深く胸を打たれ、改めて憲法を日常的に意識したいと、心から思っています。
日本国憲法第25条(昭和二十一年十一月三日憲法発布)
すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない
そして私は、第12条を自身に引き付けて大切にしたいと思います。
第12条
この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。
本田さんが正に、不断の努力で25条を保持なさろうとしていることに触発されます。私もいま生きている場所で、私なりに努力したいと改めて思っています。