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風の谷〜泰阜村   
  パートナーの覚悟〜終の棲家を決めるまで

 雪のアルプスの真ん中を突っ切るように走る中央高速道路を南に下って飯田山本ICを出ると、そこに広がる風景は天竜峡の船下りで知られた小さな商店街の並ぶ昔の街である。そこはJR飯田線の特急が止る「天竜峡駅」下伊那の観光地でもある。我が泰阜村は、そこをさっさと通り抜けて県道一号線を南にまっすぐ下り飯田市と泰阜村の境界にかかる千泰大橋(ちたいおおはし)を渡った先にある。  

 この大橋は、この世の経済を中心とした行政区と、神秘的な深い緑に包まれた日本の昔の故郷はこうであったかと思わせる懐かしい山里に入る境界でもある。

 この度悠々が10年を迎えることになって、理事長もその伴侶である夫も歳を取り、「人生の最後をどこでどのように迎えるか」について真剣に話し合う機会が多くなった。その話し合いは、家族としては「もういい加減に、苦労のわりにこれと言った成果が目に見えない趣味を止めて、今まで根拠地としていた〇〇市の都会ライフに戻ろう‼」と言うものであった。

 ぎょぎょぎょ!「この方は根っからの都会人であったか」とまたまた改めてその根本的な生き方の違いを思った。ネオンが好き、赤提灯が好き、スポーツクラブで汗をかくのが好き、そして自由時間の殆どを書斎にこもって新たな研究に没頭するのが生きがい・・・。一方私はと言えば、緑の森が好き、花が好き、お年寄りたちとお茶をするのが好き、四季折々の大自然に囲まれてその自然の中で汗をかくのが好き!う〜ん・・・この折り合いをどうするかで行き詰まっている。我が伴侶はこの私の我儘に付き合って、もう2年も単身赴任を耐えてきた。週末ごとに6時間かけて勤務先の病院から山奥の我が家に帰ってくる。彼には〇〇市の閑静な住宅地に広くて日当たり良好なマンションがある。定年後をどちらで住むか、終の棲家をどこにするかの問題で、激論を戦わしたこともある。

 私が出した検討課題はこうである

定年後「心を打ち明けて相談できる人は居るか?」

 彼:関東地方に済む大学時代の同級生が4,5人(病気の時助けてもらう /泰阜村のご近所さん2,3人(日々の困りごと心配事の際駆け付けてくれる)

 私:「悠々」のスタッフ3人(いつも心配してくれて非常時には飛んできてくれる+愚痴の相手・家族同然)+集落のご近所さん達4,5人(集落の問題を汗をかきながら守っている絆がある)/大学時代の教え子10数名(「理事長の健康と「悠々」の将来の事を心配してくれる)

⊆家用車を利用できなくなったらどうやって生きていくか

 :ノルデック・ウォークで「悠々」まで歩いてデイサロンを利用し三食を確保、役に立たなくなるまで医師として誰かの役に立つ仕事をしていたい。要介護認定されるまでは家事は自分で頑張る。/最後は「悠々」で悠々自適に暮らしたい。

 私:「悠々」の後継ぎが現れるまで頑張る+ショップライダー(電動四輪駆動車)で通勤/重度の要介護状態になったら「悠々」で悠々自適に暮らしたい。

 

パートナーの結論:都会生活を捨てて、皆に助けられながら暖かい人たちの中で悠々自適に暮らそう‼

 

 

風の谷〜泰阜村    
 時代の先駆けY市長にお会いして

 早朝、いまだ雪と氷と化している我が家の駐車場を何とか脱出し、愛知県N市のY市長を表敬訪問するという願いが叶った。当時この方は、福祉分野では全国に名を知られていた「ゴ〇カ〇村」の経営者で、その発想の基点が福祉の原点である「すべて人は人間らしく(健康で文化的な暮らしを)生きることができる」を実践しようと人生をかけておられるとお見受けした方であった。当時悠々は建設中(10年以上前)で、たまたま視察で泰阜村村長を訪れていらっしゃったとき、村長からこの名も知れぬ変わり者のことを耳にし、興味を持たれて「会いたい」と望まれ、私が役場に呼ばれたという経緯がある。その時は怖いもの知らずであった私が、鋭いご質問に答えお帰りの際に「あんたは本当に人が好きなんだね。今日はいい人に会った」と、意味深長なお言葉を賜ったものだった。

 それから、何年かしてN町の町長選に初当選され(現在はN市長)、今回「悠々」も10年経過し、当初困難にぶつかるたびによろよろと「ゴ〇カ〇村」を訪ね、暖かくもてなしていただきそのお人柄に触れて、もう一度立ち上がる力を頂いたお礼とご報告を兼ねて、面会を申し入れたものであった。

 10年前のN町はN市として幾数倍も拡大し、近年若者から「最も住みたい街」と熱い想いを寄せられる評判の街に格上げされていた。さすがYさんならではの発想力で行政を生まれ変わらせているのかと、期待で胸を膨らませて面会室?でお待ちしていたが、作業服姿でさっそうと現れたのは、行政マンのトップリーダーとしての責任をその背にズシリと背負われたその人であった。

 あの「ゴ〇カ〇村」の事業集団を率いていた福祉のトップリーダーであった時のお顔とは、別人のような厳しさを湛えたそのお姿と、日本の(世界の)未来を見据えて取り組まれている様々な企画が、そのどれもこれもが、やはりあの「ゴ〇カ〇村」の理事長であった時と同じ人間愛に満ちたものだと知った瞬間、このY氏の人間の大きさに撃たれ、このような方にお会いできたことを光栄に思った。ここにも自分の能力を超えていようがいまいが、目の前の人間を愛せずにはいられない、本当の意味で、ただひたすら幸せを願わずにはいられない、一人の人間が生きて自分と同じ地に存在していることに感動し、感謝せずにはいられなかった。

 ともに同じ方向を向いて、歩いている(その方は走っている)同志にお会いできたと感じて、もう一度私なりの覚悟を新たにしたのだった。正月明けに倒れて入院してから1か月、スタッフの方々にご無理をお願いしてきた。有難かった。でもいつまでも甘えて惰眠を貪っていてはならぬと言い聞かせ、週2日の賄い婦に復帰した。

 人々の幸せを願う仕事を背負って生きるリーダーには、自分を一歩後に置いて行動する覚悟を教えられた一日であった。

 Y.I.さん、貴重なお時間を私のために割いていただいて感謝でいっぱいです。有難うございました

風の谷〜泰阜村   
   鬼の攪乱後処理 

 今朝は雪ではなく、久しぶりに雨音で目が覚めた。そっと庭に出ると庭に植えこまれたパンジーの氷が解けて生き返ったような顔をしていた。自分の心もほっと溶けたような気がした。

 さて、正月明けに倒れて(鬼の攪乱と言われて)、スタッフや入居のお年寄りに本当にご心配をおかけし、少しボケの入った頭でよろよろ考え、今まで頑固に守ってきた理事長の筋(勝手な思い込みか・・・)をしばしの間断念することを理事会でお許し頂いた。

 一つは理事長のこだわってきた賄い(手作りの暖かい食事を食べさせたい)を、しばしの間、週2日(理事長の賄い日)近くのNお惣菜やさん(美味しいと評判)にお力を借りることにした。惣菜1食400円(ご飯は悠々で炊く)を昼夜運んでいただくことにし、朝はモーニング(名古屋圏で有名⇒カフェオレかミルク紅茶トーストonバターoかジャムヨーグルトスープサラダ)を朝ケアのスタッフがセットすることにした。これは我が悠々のお年寄りに大好評だったことと、ご近所のお年寄り達も「珍しい!、こんなうまいもん食べたことない!」と評判になっているので取り入れることにしたのである。

 賄いスタッフの不足を理事長がカヴァしていれば一見安上がりに見えるが、理事長の体力・気力に先がないことを理事たちも勘案しこの件を了承してくれたものである。今いる賄いスタッフに無理をお願いすることは、労働基準監督署の査察が入り、厳しい是正勧告を受けたため、断じてできないのである。と言って77歳になる理事長、週二日の朝4時半起きで夜7時までの肉体労働は、今回の入院で懲りたのであった。こうして「悠々を止めな!」という家族たちの厳しい叱責を逃れることにしたという顛末である。

 二つ目は、この少ない入居者問題(現在4人)の解決のため、この数日やっぱり走り回っていた。

 今まで泰阜村のためにと入居者、利用者を待ってこの10年間頑張ってきたが、泰阜村は社協が頑張っているので十分らしいということで、今回、この空室を埋めることは無理と判断した。理事たちも「他からもどんどん入れたらいい」とアドバイスを受け、隣村の阿南地域包括との協力体制を推し進めることにした。早速お一人(88歳男性・単身独居・心疾患?)永住入居のお問い合わせを受け入れることにし、ご夫婦(退院後の療養入居)の受け入れもお受け入れすることにし、正式に隣村の地域包括に協力体制を汲むご挨拶に向かうことにしたのである。その直後、他村からも協力体制のお問い合わせがあった。

 な〜んだ。私の泰阜村への10年間のこだわりはもういらないのだと一人悟ったのであった。

 

 

風の谷〜泰阜村
  理事長の条件について

 正月も明け、今日は七草がゆをやろうかという朝6時、ベッドから抜け出そうと体を起こした途端洗濯機の回転ドラムに放り込まれたような眩暈が襲った。トイレに行きたいが立ち上がれない、無理に動こうとして床に転げ落ちた。床を這ってトイレまでたどり着き胃液を吐いた。浴室の洗面器を引きずり出しトイレットペーパーを引き抜いてベッドにたどり着き、さてどうするか。夫が単身赴任のわが身は、単身独居高齢者そのものなのだった。窓の外は牡丹雪が降っている。悠々のスタッフは一人朝ケアで9時までは身動きが取れない。しばしじっと頭を枕に押し付けたまま時を待つことにした。9時すぎ、かかりつけ医の循環器内科クリニックに電話する。「目が回って起き上がれれない、吐き気が止まらず吐き続けている。どうしたらいいか」Dr.「頭痛はするか、手足の痺れや麻痺はないか」「いいえ頭痛はなく手足の痺れもありません」Dr.「じゃ睡眠不足や疲れからくる回転性眩暈だと思うから。ゆっくり寝ていなさい。それが一番の薬だよ」「はいわかりました。そう致します。どうも有難うございました」となり、昼の12時まで寝ていたが、雪はどんどん本格的に降ってくるし、吐き気は止まらず、とうとうペットの餌やりを悠々にお願いすることにし、スタッフに電話をすることにした。脱水症状になる可能性も考え夜まで待って病院に駆け込む非は避けたいと考え、「誠に申し訳ないが」と言ってお隣のNさん(山の反対側に住む)にすがるしかないかと電話をかけた。直ちに駆け付けご夫婦二人がかりで病院に運んでくれた。山道を下る車の中ではビニールの袋を被って吐きに吐いたが、嫌な顔一つせず病院に運び込んでくれた。遠くの親戚より近くの他人(親戚以上義兄弟!)とはこのことを言うのだろう。

 県立病院、休日なのにドアを開けていてくれる病院が存在することのありがたさをこの身で知って、改めて涙が出るほど有難かった。一日点滴し、一昼夜死んだように眠って翌朝、眩暈が止まりトイレに行けるようになり朝食のおかゆを少し食べ、吐き気が上がってこなかったので、退院となった。

 10年間で車ごと崖から落下したことが1回、寝起きに転倒して右膝蓋骨骨折が1回、インフルエンザ罹患が1回、(いずれも自宅療養)そして今回の疲れのための入院である。こうしてみると不注意が2回もある。

 入居者が重介護になり、スタッフも年を取ったり病で倒れたり、そして今年は大切な役員のお一人を昨年末26日に亡くした。

理事長も来月は77歳となる。

 どこも人出不足が経営者を追い詰めている。零細企業の悠々、人事管理もやり、事務もやり、人出がなければケアもやり、賄いもやる。つり橋を渡っているような日々である。

 そこで理事長の条件、若くて健康。そして人に対する愛であろう!!

 

風の谷〜泰阜村  
 入居お問い合わせから(家族の窮状/行政の窮状)

 列島を襲った大寒波は、ここ長野県南部にも雪を降らせた。その雪は昼も溶けることなく根雪となった。

最近、悠々に隣村(深い山を抱えている)からの入居のお問い合わせが続いている。80代後半の老夫婦世帯や単身独居世帯で、入院後の退院先がないという状況下にある人たちである。もう一つは入居者の親族から「もう一人在宅で看ていた年寄りの介護が限界になったので、そちらで看て欲しい」との要望である。日増しにその問い合わせが増え、介護保険の縛りが、ここにきて過疎山村の地域に住む年寄りを直撃しているという感を深くする。介護保険の家族が看る+地域で看るという論理は、現実として不可能と言うことである。ここ泰阜村でもこの冬立て続けに多くの年寄りが亡くなられ、一日に2、3件の葬儀に走り回るという異常事態に陥っているのが現状である。現実的にはもう一つの足枷があって過疎山村の村民税非課税世帯の年寄りが多く住む行政では、その年寄り等のための横出しサービスが財政的に不可能と言うことである。したがって民間の高専賃やサ高住への入居を打診するしかないが、どこも一日5千円(部屋代)で追加料金として食事代、公共料金/水道光熱費、受診時の付き添い料、介護保険のレンタル料(家事/部屋の掃除・洗濯・買い物等)が発生し、結局自己負担分は25万円から30万円近くになるという。その上認知症は受け取らないと言われるらしい。「悠々」だけが認知症でも精神障碍者でも受けてくれるというので知られているそうである。

認知症の方へのケアは、24時間の見守りケアが絶対的に必要である。そして問題は何時発生するのかわからない。先日も徘徊の方が鍵を開けて思いついたときに脱出してしまうので、追いかけて、納得されるまで山道を1時間近くもついて歩かなければならなかった。総じて80代のお年寄りの脚力には、最近の車世代の若者は到底かなわない。脱帽である。何度も繰り返される問いかけに飽きることなく対応する。うんざりしない‼(これはすぐ伝わり、不安症状を悪化させる諸悪の根源となる)このケアを守って10年、「悠々」の実績はひたひたと近隣の地域包括の方々に口コミで広がっているらしい。有難いことである。しかしスタッフの忍耐は半端なものではない。どうするか理事長‼スタッフを元気づけるためにお金以外の(どこを絞ってもないので・・・)何かいい知恵がないかと、この正月は頭が痛いことであった。

 

 

 

 

風の谷〜泰阜村   
  新しいお客様(認知症の方の苦悶)

 師走に入り本格的な冬の到来に悠々では床暖房のスウィッチが入り、薪ストーブが一日中赤い炎を上げている。別天地のようなリビングに入ると、訪れた人は引き寄せられたようにストーブの前に座り、そっと出された1杯のお茶をすすりながら「ここは暖かですね〜、なんか心もほっとしますね」と嬉しそう。

 隣町の地域包括さんからお問い合わせが入り、「80代ご夫婦の夫が自動車事故で入院した、認知症のある妻(まだ介護保険未申請)をこの寒さの中独り残しておくわけにはいかないので、悠々で急きょ預かってもらえないか」というご相談であった。浜松から駆け付けたお子さんたちに連れられたKさんは、夫の自動車事故に気が動転し、急に子供たちがやってきてあれやこれやと自分を引きずり回すのに混乱し、「悠々に泊まるんだよ」と言う言葉に猛然と抵抗した。

 下を向いて口を一文字に結び「私は一人でちゃんとやってきた。大丈夫だ。何も心配されることはない」と言い切る。子供たち二人がかりの説得が2時間続き、双方ともに疲労困憊していた。

「とりあえず、お夕飯を私たちと一緒に頂きませんか」と進めてみる。置ていくわけにもいかず、かといって連れて帰るわけにもいかない子供と孫三人は、悠々の手作りあったかご飯をお相伴することになった。家族のように寄り添って悠々のお年寄りがスタッフと一緒に食べている光景に、ご本人もご家族も「ここはいいですね」と呟く。施設の食堂らしくないらしい。Kさんの顔にも笑顔が見られるようになった。

 その様子を傍から見ていた理事長からの一言「今日は一気に日常にはないことが続きましたね。御婆ちゃんには一番苦手なことが起こっているのだと思います。そのような状況の中で、たった一人見も知らぬところに置いて行かれるのは本当に不安でしょう。どうでしょうか、ご家族もご一緒に今晩は泊まられるというのは?」顔を見合わせた二人は、「それもいい考えかもしれない」とのことで急きょ三人で同じ部屋にお布団を並べて泊まることになった。

 それ以来Kさんは、「しょうがないね〜」と当分お泊りすることに承諾した。子供たちは毎晩のように浜松から往復しながら入院中の父親のお世話、帰りは悠々に立ち寄って母親の様子を確かめるという日々が続いている。

 そこでKおばあちゃんの様子:「ご飯がおいしい」と3食は完食、10時と3時のお茶の時間は1時間ほどかけてスタッフや隣の席に座った90になったばかりのMおばあちゃんと「あんたはどこから来たね」とあれこれの質問に答え、「わしらの若いころは・・・」と話しに花が咲いて、見知らぬところではなくなってきているようだ。スタッフの昼休憩には、一緒にこたつに足を突っ込んでおしゃべりしながらTVを見て過ごしている。「おじいさんはどこに行ったかね」、「トイレはどこかね」「あ〜トイレの流し方がわからん」・・・おそらくご自宅では和式便器かな?

 入居者やスタッフがいつも見えるところにいることが、不安を減らすのに役立っているのかもしれない。

それにしても緊急事態の時に見知らぬ施設に預けられてしまうお年寄り、どれほどの不安であろう。小学校区に一つ地域の行事のたびに皆が集まる。そこに併設のケア付き民宿があればいいのにと、今回の経験でまたその感を深くしたところであった。

 

 

 

風の谷〜泰阜村     
     施設でのケアの限界とは・・・

 北信では今日も雪が舞うと聞き、2,3日前に融雪剤18袋を集落の急坂な村道脇に置いて回った。1袋25Kg のそれはあまりにも重く、女の年寄りでは引いても押してもびくともしないということで、やはりご近所の70代後半の男性が軽トラックでやってきて「手伝うから横に乗って」と言って、手伝っていただいたが、それが要因かどうか2日後に入院してしまった。うちの部落は総勢10軒、そのうち80代の寡婦が二人、単身赴任で一人残された老妻が二人、80歳を超え障碍を持っていて重い仕事ができない人が三人、重い病気の療養中の男性一人、ということで6軒は班長の仕事が困難である。自分の地域を愛していて、離れられない者たちが助け合って暮らしている。その年老いた仲間たちに厳しい冬が到来した。

 悠々はその年寄りたちに灯火となるか?心を温める焚火となれるかが今から試されるのであろう。

先の総会の来賓あいさつで、村長が「この事業が真に村民に受け入れられるようになるのには10年、20年かかるのであろうと思う。がんばってやってください」と今後を託されたが、前にずらりと並んだ役員の顔触れは、紛れもなくくたびれた年寄り達に他ならない。それを受け懇親会では、「月に1回はボランティアをしに通ってくるよ。息子たちと相談して村に移住するか相談してみる」という厚木在住の組合員の力強い言葉を頂き、神奈川在住の新入会組合員のお一人は「冬の自家用車は厳しいから、電車でくる方法を調べるよ。月1回は来るようにするよ」とやってみればあまりにも遠い距離に閉口するのだろうが、そんな嬉しい希望の灯を置いて行かれた。

 さて悠々では悪性腫瘍の短期療養入居者をつぎつぎお預かりし、(入居者は少ないのだけれど)最少のスタッフで対応している。週1回の市立病院への通院介助、ご本人とともに入居されているご家族のケアも担いながら、徐々に重くなる症状に悪戦苦闘の日々に突入した。大変なのは、医師に指示された重要なケアを、本人が頑固に拒否されることである。この時、本人の意思を尊重(自尊の心)すると、病状が新たな段階に突入することが確かであるとき、(専門職による特別なケアを必要とする時)それを放置することはできない。

 これが施設のケアの限界であろうか。

本人は、病院からの帰途車中で「あと1年、2年は生きたいな・・・」と呟かれる。

「車は運転したい。議員の仕事も悠々の会計事務も自分がする。正月は家に帰って家族とおせち料理を食べる。トイレは自分で行く。ケアは必要な時にしか要らない」とがんこに貫かれる。

 人は本当はこうやって最後まで自分らしく生きていたいのだ。 

風の谷〜泰阜村   
    晩秋に思う・・・

 雪の便りが聞かれた。泰阜村ではあちこちの軒下にすだれ柿が吊るさせれている。冷たい北風の到来に錦秋の森に落ち葉が舞って、日増しに森が明るくなってきた。落葉樹の森に落ち葉の絨毯をサクサク踏んで、独り散歩するのがいい。

 11月26日の日曜日に、村長や村会議長等村の来賓をお迎えして、第11回通常総会を開催することになった。

この村に通うようになってもう40年になる。そしてこの村に「悠々」を作りたいと思い立ち、本格的に移住してからでも12年経つ。長いかな〜短かったような気もする。今回の総会は、来年には10年間の指定管理の区切りを迎えるということで、村にとっても我が役員やスタッフたちにとっても意味深いターニングポイントとなる。

 この9年間で視察者は北は北海道から南は沖縄まで、実に多くの方たちと交流できたように思う。その方たちが決まったように口にする言葉がある。「何故かわからないのだけれど、ここに居るとほっこりして体中がゆるむ気がする。帰りたくない気がする。」そう言って思い出したように民泊のリピーターになられる。

 当初それを目指したわけではない。しかしこの村で、この大自然に包まれた里山の奥深くに(近くのJRの田本駅は秘境である)、ひっそりと仲間たちと身を寄せ合って和やかな家族のような暮らしがしたいと望んだ結果、今の「悠々」が出来上がった。私の心がけたことはそれだけだった。

 この事業は、厚生労働省ではなく(これまでたくさんの補助金を事業を起こしては厚生労働省から頂いたけれど・・・)当初の大型の補助金は、日本の過疎山村に住む、経済発展から取り残された貧しい村の、それもまた時代の荒波に取り残されたお年寄り達と、身を寄せ合って、貧しいけれど幸せになれる暮らし方を実現したいと訴えて、その活動拠点としてのバリアフリーの建物を建ててくださいとお願いしたのだった。

 この12年間住民として部落の班長をやり(同時に5つの役を抱えることになるのだが・・・)、村の運動会でよろよろと走り、綱引きで優勝するまで力を入れて村の古参のお年寄りに笑われ、年に数回の道路愛護に汗をかいた。もう部落のお年寄り達とは、家族未満友達以上の関係である。そのように生きてきて、お金では買えない幸せを頂いた。

 TVの中で偉いお役人たちが「これからは地域の時代だ!」と叫んでいるようだが、地域の絆はお金では買えない。天から降ってくるものでもない。自分の村を守るために共に汗をかき、困ったときには飛んで行って「大丈夫か」と顔をのぞかせ、自分でできるほんの小さなことをする。それらの日々の暮らしの中で積み重ねた「思いやり」が、知らぬ間に地域の絆を育てていってくれたのかもしれない・・・と思う。

 そのお年寄りたちがご近所さんを誘って、月に1回の「地域リハビリ教室」に集まってくる。お母さん役の理事長の手料理が「おいしい!」と言ってみんなでほめ殺しにする。入居者たちも1ケ月に1回会えるご近所さんから最近の情報をゲットしているらしい。

 一番いいのは、この「リハビリ教室」の後である。お年寄りたちは畳コーナーのこたつの中に足を突っ込んで、ゆっくりおしゃべりしたり昼寝をしたりして、まるで誰かの家の離れのようだ。そう感じているらしい。

 そして先生方は、混迷する地方の活性化のためにどうすればいいのかと、熱い議論をする。「〇〇〇研究所を創ろう」という話まで出てくる。「どう思う?」と聞かれ、「あのね私はいったいいくつになるのかを考えてみて下さい」と答える。もうじき80歳に手が届きそうだというのに・・・何を言い出すのやら。

 「悠々」では特別なことは何一つやってこなかった。できなかったのもあるが(星空観望会、託児所、地域名産物販売等)、「ケア付き民宿」が今のところ一番のヒットメニューであろうか。それと「悠々食堂」。村に一番必要で、それにもかかわらずこれには介護保険も他の補助金もつかない、とあって評判を呼んでいる。

 なにも特別な事ではない。ただこの村のお年寄りにとって、とっさの困ったとき、これがあれば生きていけるというものである。

風の谷〜泰阜村 
「病院での最後・・・」

「癌の看取りを施設で終わらせるのは忍びない」と、今月97歳の誕生日を迎えるというMさんのご兄弟が言い出したということで、内服用の麻薬鎮痛剤が終わったので受診したところにお嫁さんがやってきた。

 前日まで自分の足で歩行器でトイレに行き、昼食までは食堂に出て自分で普通食を食べていた。お茶の時間にも皆と頂いた柿を美味しそうに食べていた。出血は続いていたけれど、血液検査結果では貧血はあるけれど栄養状態も落ちてはいない、心臓機能、肺の機能も落ち着いていると告げられた。

 しかし家族は上述の理由で入院を強く望んだ。医師は確認のため施設長の私の顔を見た。私は「このような場合は、ご家族のご希望が優先します。どうぞご家族の判断にお任せします。私はそれに従います」と告げた。

 医師も「延命治療を望まない」と言われていたご本人の意思を確認していたはずであっが、ご家族の顔を向き今後の治療方針を告げていった。「失血の量を把握するためバルーンカテーテル挿入、失血に対し輸血を、尿路感染には点滴治療を実施します」と。体中を様々な管につながれて逝くことになった。

 

 「これらの治療は本人のためかなのだろうか?」「どうしてこんなことになるのだろうか?」

昨晩は、ベッドのそばで「おじいさんはどこに行ったね」「おじいさんはね、先にあの世に逝かれたんだよ。Mさんのお席を準備しておられるからお迎えが来るまで一緒に待っていましょうね。いつも私たちがお傍にいるから大丈夫!」と言っていたっけ。

 私たちは朝も昼もいつも見守り、痛くないように、不快でないようにと心がけていたっけ・・・。私たちはMさんを愛し、大切に思っていた。誰も口にはださないけれど、空っぽのお部屋の前を通り過ぎるとき胸が痛んでたまらないことを、せめてMさんへの贈り物にしたい。

 

 

風の谷〜泰阜村  
    悠々の看取り

 癌のステージ4と宣告されてから1年経過している96歳のMさん。先週の金曜日の夜、突然の大量出血が止まらなくなり、近くの県立病院に連れて行った。かかりつけの医師からは血液検査、CTを家族等に示しながら、「今日、明日ということもあり得ます。最初のお話しのとおり、延命治療はしないということなので、痛みと苦しみをできる限りとってあげましょう。大変だと思いますが、頑張ってください」というお言葉をいただいた。その夜から麻薬の鎮痛剤服用が開始された。

 それから4日、見た目には普通のお婆ちゃんに見える。夜中には独歩でトイレに行き、皆と同じ普通食を食べ、3時と10時のお茶にも出てくる。余命宣告の翌日、親戚一同がやってきた。お昼も普通食をご一緒に召し上がられ、同席の家族はいつ逝くかわからないというのに、あまりにも普通に見えるのでびっくり仰天して帰られた。

 それから、Mさんの興奮状態が収まらない。「10人もいる兄弟がみんな来てくれた。こんな嬉しいことはない。みんな年を取っているので普段でもめったに会えない兄弟に会えて、話が出来て嬉しかった、生涯でこんな嬉しいことはなかった。それに皆さんが嫌な顔もせずに迎えてくれたので嬉しかった。このご恩は忘れない」と言う。それから誰彼をつかまえてはこの興奮状態が続き、スタッフは体力の消耗を心配した。

 今日で4日目、診療所の先生が東京に出かけて月、火と二日間この村は無医村になる。家族とその時に臨終を迎えたらどうするということになった。死亡診断書の事である。このままお亡くなりになったら、救急車には死人を乗せてくれないので、「ご遺体を抱えて県立病院にお連れするしかないか」と言うことになり、誰がご遺体をお運びするかで家族が、「家ではそれは無理なので病院に入れてください。」といわれる。それを聞いた理事長「食事も普通食を取っている。独歩で歩けてしゃべれる。自分でトイレでおむつ交換ができる。服薬は自分で普通にできる人を病院は入院させません。死亡診断書を頂くために入院はできないと思いますが・・・」

 家族は、苦い顔を見合わせている。「どうしてもご家族が、ご遺体を抱いて病院にお連れするのが出来ないと言われるなら、私が抱いてお運びいたします。死亡診断書を頂いたらご家族をお呼びいたします」と告げた。診療所の医師が居なくなる時、泰阜村で看取るということは、この覚悟が家族に求められるのであろう。お住いの下条村でも最近往診がなくなったそうである。

 

 台風一過、朝一番の空に二本の虹が「悠々」の天空に掛かった。

 その夜は澄み切った空に三日月がくっきりと浮かび上がっていた。悠々のなかでは、昼夜を問わず心配げな顔でケアを続けるスタッフの顔がある。今日は理事長の賄いの日である。この激務いつまでもつか・・・


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