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風の谷泰阜村から
高齢者協同企業組合許認可下りる

今朝 電話で朗報が入った。



高齢者のための共同住宅を泰阜村の南地区につくりたい と言う願いが 4年がかりで叶った。



この願いは、20年ほど前藤田保健衛生大学リハビリテーション科での7年間と、

それに続く東京都リハビリ病院での3年間の医療ソーシャルワーカーとしての臨床経験から、

「介護保険では、ご不自由をかかえた障害者を在宅には戻せない」という確信につき動かされたからである。



では今、何が足りないのか。



患者さんたちが共通して願うのは、まず第一に、食事とトイレは自分でしたいということである。そして普通の暮らしをしたいことである。

それを叶えるには、地域の仲間たちの支えと生活の中に継続したリハビリが必要である。



 普通の健常者は皆知らないが、ある老人介護施設で起っていることである。

食事の時間になると、たとえ自分で手が使えても、一人で食べることは許されない。

 ぼろぼろこぼし汚くて、時間がかかるからである。

 一人の介助者の前に、4~5人の入所者が並ばされ、それぞれの前に置かれたどんぶりからスプーンですくって自分の口に放り込まれるのを 順番に口をあけて食べる。

どんぶりに入っているのは、その日のご飯と汁物とおかずと漬物が混ぜ合わされ、粉くすりがかけてある。

 勇気ある一人の入所者がそれを吐き出したところ、はきだされたものをもう一度すくって口の中に放り込まれたそうである。その施設に働く人たちの中には、それが間違っていると知っているものもいるのだが、だれも入所者のために声を上げるものはいなかった。



 それに似たようなことが重なって、なんとかしたいと思った私は、結果としていま泰阜村にいることになった。

 

泰阜村に集う人たちには、どんなに障害があっても、そして貧しくても、笑顔と笑い声が聞こえる場所にしたい。



これが、私の唯一つの願いである。



私は今日、このことをもう一度こころに誓った。


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風の谷泰阜村から
過疎の村の老人の 安らかな死のために

長野県は長寿で知られている

 その中でも、泰阜村は元気なお年寄りが多い.

80歳、90歳はまだまだ現役で、

 村の道路や水路等 山林を守る共同作業は彼らが陣頭指揮を取っている.



そのお年寄りが最後に脳卒中や事故によって倒れたとき、

 どうするかが この21世紀の医療に問われている.



大都会からやってきた一人の青年医師は

 90歳をとっくに過ぎた意識障害のあるお年寄りたちに、

 胃に管を通して高カロリーの栄養を与える手術や

 延命のための手厚い手術を、惜しげもなく投入することに

  疑問を感じていたと言う・・・・



今その80代、90代のお年寄りの人生はどのようであったかに想いを馳せれば、

 人として どのようにあるべきかが見えてくる



 戦後60年たった今でこそ、過疎の村の年寄りたちも

  救急車で病院に運んでもらえるようになった.



それまで多くの貧しい山村では、

 お医者様に最後の脈を取ってもらえずに死んでいく身内を

 少なからず持っているものだった.



その彼らが、戦後日本の復興のために働いて働いて一生を終えようとするとき、

 年だからというそれだけの理由で

  21世紀の現代の医療の恩恵を、 

 受けられずに死んでいかなくてならないのかを 考えたい.



現代医療の総力を挙げて、それでも適わぬと知ったとき

 そのときこそ、安らかに 自分の寿命を受け入れることが出来る



自分のために尽くされた医療とスタッフの尽力に感謝を込めて

 「もう充分だ」と 自らいえる気骨を持つ人々であることを 信じてほしい.



医療に携わる人々に、

 これらのお年寄り達が この日本繁栄の底力であったことに想いを馳せてほしい。

 若い世代のひとびともやがて 年を取る



この老人達を、いかに安らかに見送る事が出来るか

 その心映えが 今医療に問われていると思う.







 

 
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風の谷泰阜村から 
   医療過疎地ということ

泰阜村は冬支度を急ぐ山里の紅の盛りの中で

 50歳と4ヶ月の働き盛りの男性を見送った

 20代になったばかりの二人の息子の父親であった

 

 150人を超える参列者たちの誰もが、そのあまりの若さを心底から惜しんだ

 肺がんの転移による死は、発見されるまでに5年経過していたという.

 21世紀のこの時代に、何時までもなおらぬ咳をまわりから指摘されても

 主治医を信頼して最後まで着いていったという・・・

   

 

 その律儀さでだれからも愛された彼の死に

 参列者のだれもが「残念で、残念でたまらない」気持ちであった

 

 過疎の村泰阜、人口の38%が老人というこの村にとって

 50代が始まったばかりの彼は

 「大切な宝」であった



 医療過疎とは、医者がいないことではない.

  最新の医療に関する正しい情報を

  医者も、家族も、本人も持ち得なかったことであると

 この日、思い知った.



 



 
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風の谷泰阜村から〜狩場仙人との出会い

先週末 泰阜村の狩場仙人からお招きを受けた



父親の代からプロの猟師だったといわれる 鋭い眼光が特徴のM氏は

全身無駄なところは何一つないという表現がピッタリの ばねのような筋肉と骨格とを具えていた



6畳一間の離れに通された

部屋の真ん中にでんと構た囲炉裏には 真っ赤に熾った炭火

少し開けられた障子窓からは 秋の渓谷が広がっている



囲炉裏端の周りを取り囲む白壁には

 M氏の父親が使っていた 鉞や名前は知らないが狩の道具が一面に飾ってある

 りっぱな角をもった鹿の骸骨も・・・・



これに続くもてなしの数々は もちろん山の珍味尽くし

中でも 大スズメバチ(体長4センチはありそうな)の蜂の子は

ほんのり甘く 芳醇なチーズのような舌触りで 非売品なのでめったに口に入らないという

マツタケ酒を舌でコロコロと味わい、茸三昧に舌鼓を打ちながら

野山を駆け回って年に3ヶ月だけ解禁になるという狩の話を堪能した



そのM氏があるときから、プロとしての猟師を止めたのだという

「何故か?」と問と



「何十年もともに猟をし誰よりも大切に思っていた仲間をお金のために失ったからだ」と言う

「お金で失った仲間は いかなることをしても もう元には戻らない。取り返しのつかないことをした」と

それ以来 とった獲物は いかなるものもお金では 売らないということだった



そのM氏に なぜ私たちのようなものがこのようなお招きを頂いたのか?と問と

「会った一瞬間で 何か自分の生き方に相通ずるようなものを ピンと感じた」と言われた



 M氏のここまで潔く生きる姿に感銘を受けた私たちは

 M氏とその奥様とその座に同席した5人で 義兄弟の杯を交わしてしまった



 泰阜村渓谷に立つ庵での 秋雨が降りしきる夜の 夢のような一刻であった





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風の谷泰阜〜つるべ落としの日暮れに

泰阜の秋の夕日が

 あたり一面の空と雲を 真っ赤に染めて

谷を挟んだ対岸の幾重にも重なる暗い山陰に

 ストンと落ちる



大自然の営みの

 厳粛な一瞬にことばを失う 子犬と私



泰阜村に夫が身を落ち着け

 私が過去の全ての仕事を引き払って

 本当の泰阜村の生活が始まった



取り入れがすっかり終わった山里は

 なぜか シンと静まり返っている

だれも拾うう事のない 山胡桃をひろいながら

 今宵の夕食は 五平餅でも焼こうか と思う

風の谷泰阜 〜山里への訪問者たちのこと

泰阜村は、介護保険が始まる10年以上も前から在宅福祉に力を入れていた村で知られている。

村には毎年のようにいろんな大学の調査や、TVの取材や新聞の取材が村を訪れていて、

「調査にご協力を」というと、「また調査か、一体同じことを何回聞いたら気が済むのかね〜」と言われる。



しかし今回の調査は今までとは恐らくその規模や調査の中身が桁外れに違っていたらしく、

調査用紙が配布されてその中身を目にしたとたん、

 「なんでこんな調査をやるんだ!調査の目的は何だ!」

という村民からの激しい反応が役場に寄せられ、8月末の2〜3日は役場職員が

その対応に疲労困憊したという事態が起こった。



とりわけ暑かった平成19年の泰阜村の夏、泰阜村に何かが起こった!



さる8月18日の調査員研修会に始まって、8月27日から9月8日までの訪問調査期間の間、

愛知県東海市、長野市、群馬県高崎市の大学、専門学校から

総勢40名ちかくの学生と教員が、聞き取り調査のため

泰阜村全村民の一軒一軒のお宅を訪問した。



全国でも初めての試み・・・であろうと思われる、

 「泰阜村生活満足度調査」の訪問ききとり調査である。

これは全村民(0歳〜5歳を除く)から、それぞれの世代ごとに

泰阜村の暮らしの中で実際に感じている要望やご意見を伺うというものである。



この調査には、泰阜村しかできないであろうという「助っ人」のご協力があった。

これが他のどこの自治体でも実現不可能ではないかと思われるできごとである。

 その一つは、泰阜村始まって以来という猛暑の中を、

 村民の有志のお年寄りたちが自分たちの車を走らせて、

 村中の一軒一軒のお宅に、「よろしく頼む」という一声とともに

 学生たちを送り届けるという大事業を担ってくれたのである。

 その上にこれがまたまた予算がないので日当は殆ど無償である!



村人は、顔見知りの村民が連れてきた若い学生調査員に心を開くのに

 あまり時間を必要としなかった。

学生たちは、山ほどの新鮮な野菜、甘いお茶菓子等を抱えて戻ってきた。

 最後には地酒を2本抱えて帰ってきた学生も現れる始末、

 一体どのような訪問調査が展開されたことであろうか。



学生たちは「泰阜村のお年寄りや子供たちや、働く世代の人たちが、みんな真剣に生きていること、

村の生活に満足していることが素晴らしい」と感動していた。

そしてみんな、泰阜村とそこに住む村人のことが大好きになった。

「自分の第二のふるさとです。また帰って来たいです。」といってくれた。



学生たちは慰労会の席上、このような勉強の機会を与えてくれた村と村長に感謝し、村長を胴上げした!



9月8日に調査本部が撤収され学生たちが去ると、

 泰阜村の暑い夏が過ぎ去り本格的な秋がやってきていた。



泰阜の山里に赤とんぼが舞い、秋の虫たちの大合奏が響いている。

 ススキの穂波が揺れ、萩、おみなえし、桔梗、撫子、水引などの秋の花が咲き乱れている。



稲刈りが終われば、秋祭りはもうすぐそこだ。



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風の谷泰阜
〜沖縄の8月 沖縄の戦後について

亜熱帯の島・沖縄は、伝統的な祭り 『エイサー踊り』で本格的な夏色に染まるような気がする。

 このイベントに参加すると見受けられる若者たちの嬌声で、

 沖縄行きの機内はまことに賑やかだった。



例年であれば、紺碧の空とコバルトブルーの海が私たちを迎えてくれたはずが、

 大型台風の襲来で、灰色の雲と暗い色をした海が目の前に広がっていて、

 少し不思議な感じがした。



私たちの2回目になる沖縄・ガマ慰霊の旅は、

 台風の余波で例年よりもいっそう蒸し暑さを増し、

 人柱の形をしたやぶ蚊の大群や、ハブとの遭遇の危険をはらみながら無事に終わった。



8月6日と8月9日の「ヒロシマ・ナガサキ」の平和記念行事が新聞の見出しに踊る同じ日本で、

 沖縄における地上戦の凄まじさについて語られることの小ささに、

 何か背筋の寒くなるような思いを 今年も体験した。



「ヒロシマ・ナガサキ」の被爆者たちの苦しみと、

 沖縄の二十数万と言われる戦死傷者たちの、何がこの違いを生んでいるのか、

 残されたガマの漆黒の闇の中で 目には見えぬが 確かにその気配を感じる魂たちに

 手を合わせながら、必死に自問した。



「無知は罪です」は瀬戸内寂照さんの言葉



私は 「6月23日」という日が 

 沖縄守備軍司令官の自決で、組織的戦闘終結の日として

 沖縄中のお年寄りが 『魂魄の塔』 の前に集い

 庭に咲く花を携え それぞれの思いを抱え 静かに祈る日であることを 

 知らなかった。



『魂魄の塔』こそ

 沖縄の非戦闘員であった こどもやお年寄りや、幼子を抱えた母たちが

 軍によってガマを追い出され、 隠れようもなく逃げ惑って殺された挙句、

 戦後 葬ることを禁じられ

 野原に転がっているそれらの遺骨を ブルドーザーで 掻き散らされようとしたとき

 勇気ある住民たちによって 集められ

 塚として 祭られていることを 知らなかった。



有名な『ひめゆりの塔』の すぐ近くにあって

 観光地とは程遠い 『魂魄の塔』 の美しさよ!



戦後の日本の繁栄が

 これらの沖縄の人々の犠牲の上にあることを

 私は 知らなかった。



今もなお、米国統治27年間を 日本人とは認めてもらえず

 年金は27年間の空白を保証しない。



こんなことが許されていいのか!



私は泣きながら

 心のそこから 沖縄の全ての人々に お詫びしたい!



私が これまで あなた方の苦しみについて 何一つ知らなかったことを

 許してください!



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風の谷泰阜村
 〜この地球という星に生まれた
子供たちの未来について

人は皆 この世という名の地獄に生まれてくる のかもしれない.

 TVドキュメンタリー「世界がもし百人の村だったら」に登場してくるのは,

 すべて,この地球という星に生れ落ちた子供たちの姿である.



 その一人ひとりの子供たちは,「この親を選んで生まれてきた」という言葉を聞いたことがある。

  愛されて幸せな人生を歩み始めた子供たちのことである.

  

 親たちが,戦争や,テロや,事故や,病気や,失業やリストラのために,

        自分の子供たちを守れない国がある。

 親たちが,自分の子供の臓器を売り払ったり,

        奴隷や児童売春の標的のように 売り払っている・・・・

 それだけでなく、親たちによる暴力や育児放棄で殺される子供たちが,

       後を絶たない 国がある.

  そして,この子供たちを食い物にして,

  ぬくぬくと栄耀栄華を誇っている 国がある.



 「しあわせには無数の顔がある,しかし不幸はみんな同じ顔をしている」という.



 ここに登場している子供たちに共通している不幸は

  「貧しいこと,教育を受けられないこと」である.



 この地球という星に生まれたすべての子供たちの幸せについて

  「地球村に住むすべての大人には 責任がある」 と思う.



 東京の吉祥寺に住む 一人のカトリックの老神父が,

   もう何十年もの間、たくさんのカンボジアの子供たちを養子にして

   日本の学校に通わせ,高校を卒業するまで養っていたことがある.



 今もなお、そのG神父は,

   1年間の講演料や結婚式やお葬式の司式で得た謝礼の全てを貯めて、

   毎年 カンボジアに学校を建てている.



 カンボジアの村々に 毎年1校建てるのに 500万円のお金が必要だという.



 自分のためには,居候している教会で出されるものを食べさせてもらい, 

      着るものもバザーで余ったもの, 頂き物で十分という.



 G神父に育てられた カンボジアの子供たち全てが, 

      感謝の念を表してくれる訳でもないという.

 子供たちの中には,青年期になると反抗して家を飛び出し,帰ってこない子もいた

     ちょっぴり寂しそうに「男手一つで育てているので・・・」と口ごもる.

 

 それでもG神父は この任務を決して止めなかった.



 今もなお この地球村に住む子供たちの

  80万人が少年兵として 銃を手に戦っている.

  500万人が 安心して暮らす家がないホームレスである.



 一体どうしたら この水の惑星「地球」という星を 地獄のような苦しみから救い出せるのか



 一人ひとりの大人が 考える時が到来している と感じる.



 



 







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風の谷泰阜村
 〜人が死んでいくということ〜

長野県飯田市に住んでいた

 一人のおばあちゃんの魅力的な死に際について、

 その娘さんにあたるKさんがちぎり絵で絵本を作りました.



ご縁があって、「母からのおくりもの」というそのちぎり絵の絵本と出会い、

 そこに描かれた一人の人間の見事な人生の引き際に、本当に感動し、

 心の中に仕舞っておけなくなりました。



☆農家に育ち、農家に嫁ぎ、五人の娘たちを育て

 食べることも 着ることにも無欲で、ぐち一ついわず働きづめだった Kさんのお母さんは、

 82歳の春、腸閉塞で入院手術し、10ヶ月に及ぶ闘病生活を経験しました。



自宅退院後も、人に迷惑をかけたくない一心で、手足のリハビリを欠かすことなく励み、

 家の役に立ちたいと、不自由な身体で台所仕事を引き受けていました。



その2年後、85歳の時直腸ガンが見つかりましたが、『充分長生きしたから もう入院は嫌だ』と

 ストマ(人口肛門)の手術だけを受けて、二週間で自宅に戻りました。



その後も自力を振り絞って這いながら部屋の中を移動していたこのお母さんが

 『もう がんばれない』といって動けなくなりました。



家族は、具合が悪いのに入院させないなんて という世間の風潮の中にあって、

 『二度と入院したくない』 と強く望むお母さんの気持ちだけを考えた五人の娘たちと孫たちは、

 みんなで全面的に支えあって、家で最後をむかえさせてあげようと決めました。



寝たきりになったお母さんは、水分以外の食べ物を口にしなくなり、日に日に弱っていきました。



それを黙って見ていられなくなった家族は、近くのお医者様に往診を頼みましたが、

 『なおる見込みがないから もういいです』 と自ら治療を断わりました。



苦しさのあまり 『早く 仏様になりたい』 というお母さんを腕に抱きながら、

 長女は『おばあちゃん もう がんばらなくていいから 安心してゆっくり眠りましょうね』 と言って、

 子守唄を歌ったり、ゆずり葉のお話を聞かせました。



お母さんに抱かれた赤ちゃんのように 安らかな表情をしたお母さんは、

 『早く 早く』 という言葉を二回残して まもなく息を引き取りました。



お母さんがが亡くなったのは85歳の秋の彼岸、 

 果物の収穫がひと段落し、氏子の村祭りが終った頃、



「お祭りが終わったから もういつ おむかえが来てもいい」と

 葬式に隣組のお世話を受けるのを気遣いつつ、合掌しお題目をとなえながら、



『わしほど幸せ者はいない。家で死ぬことができるから』といいながら、

自らの生き様を みんなの心に残して旅立ちました。





人は一生涯をとおして

 自らの周りの人々との間に、人間としての心を育むことがなかったら

 このような豊かな死を 手にすることは出来ないのかもしれない。



《私はそれを怠ってはこなかっただろうか》 と ふと考えています。







  
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風の谷〜泰阜
人が生きるということ

 今年の3月に66歳で定年退職して3ヶ月半が経過した。
やっぱりなんだかわからないが、多忙な毎日が続いている。
 これまでの人生、ずっと働きながら勉強したり、働きながら子育てしてきたので、記憶にある限り休日にゆっくり休んだという実感がない。自分の前にはいつも自分を駆り立てるような課題があって、妻として母として、そして社会人として、家事や子育てをしながら(手抜きとの批難をものともせず)生きてきた気がする。
 今の私があるのは、私の周りの多くの人々の善意によって守られてきたお陰そのものだと、つくづく思う。
小さい頃からの家庭の事情で、満州からの引揚で僅かばかりの財産をすべて失い、小学校6年のときに、母が轢き逃げにあって頭部外傷で入院し、幼い弟2人と父親の家事を担った。
 中学校のときには、父が経営していた建築会社が連帯保証人倒産に会い、すべての財産を失った。
借金取りから逃れるために、父親は私たちの前から姿を消したが、借金取りは留守宅の母と3人の子供たちを脅すために、毎日通ってきた。お嬢さんで育った母が町に出て小さなお好み焼き店を開き、家族を養った。家の家事は長女の私が引き受け、弟の一人はこのころから村の悪い仲間に入り、そこで育った。長い間家族はみんなバラバラで生活はつらく苦しかった。
 しばらくたってやっと西三河にある建築会社に就職先を見つけた父が、私たちを呼び寄せてくれたが、初任給では貧しく、当然のように高校進学を断念して、私が働いて家族をやしなうことになっていた。しかし、もうお亡くなりになられた当時の中学の担任が、自宅まで訪ねてこられて、「このまま中卒で終わるのはあまりにも惜しい、授業料を出すので高校に行かせてほしい」と両親を説得した。その熱意に打たれて両親は、私を高校に行かせることにしてくれた。
 しかしこのことは、父に過酷な労働を課すことになった。毎晩、過酷な建築現場での仕事が終わってから、自宅で深夜まで内職をして私たちを学校に行かせてくれた。
 程なくしてこの無理な労働が祟った父は、肝硬変で倒れ、長期の入院を余儀なくされ,そしてまた、私たちの生活は苦しくなった。

 今、教育の問題が叫ばれている。世界に冠たる経済大国の日本で、お金が無いために、高校・大学に行けない子供たちが大勢いる。
家族の中に病気の人や障害者を抱えていると、その看病のため、介護のために家族が全力を尽くして働けず、子供たちの教育費にまでお金が廻らないのである。
 この3月に退職した元の大学でも、大半の学生はアルバイトで殆どのエネルギーを費やし、テキストや参考文献を読むゆとりがないのが現状だった。大学構内で倒れそうな学生A君にに「どうしたの?」と声をかけたところ、「この3日間、アルバイト先のレストランが休みで、水以外に何も食べていない」という。取りあえず研究室にあった食べられそうなものを食べさせて、何がしかのお金を渡し「困ったらいつでも研究室においで」と帰らせたが、そのA君は,授業料も、アパートの家賃も、衣類も、食費も全部自分で働いて、「それでもいいから勉強がしたい」と親に頼んだと言ったそうだ。
 このA君が4年生の6月、祖母の介護をしながら働いて家族を養っていた母親が突然亡くなり、パート警備員をしている病弱な父親が、残された病弱な祖母の介護をすることになった。このままでは家賃が払えないと、A君は4年生の夏休みを前にして大学を退学した。豊かな日本、優秀な学生が貧しさの故に、社会の荒波の中に消えていった。

大学教育とは何かが今問われていると思う。
今の大学は資格を取るための専門学校化が進んでしまった。
大学こそは、人間とは何か、人が生きるとは何か、死ぬとは何かについてその時代時代の課題の中で、教員と学生が真剣に突き詰めて考えていく場ではなかったか。
私の人生には、高校進学を必死になって勧めてくれた担任教師がいた。
 50年以上たってみて、その行為が現在の私の行動のすべての根幹を支えていることを実感している。教育とは、『一人の子供の人生そのものを救い上げる役割を担っている』ことを、現場で働く教員一人ひとりが、自覚できるような再教育が必要なのかもしれないと思う。

国政選挙「参議院選挙」がスタートする。
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