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風の谷〜泰阜村     
    悠々に奇跡が起こったよ!

昨日は春一番が泰阜村にも吹いて、残り雪が一斉に消え枯草の間にもう緑色の草が顔を出した。スタッフがご近所の蕗の薹を摘ませてもらって山菜の天ぷら第1号をしたよと嬉しそう。そう山郷の民は誰よりもこの春の訪れを敏感にキャッチし、春の野に出かけるのだ。そして誰もが村のどの辺にもう山菜の芽が出ているころだと知っている。今年のタケノコは一番乗りのイノシシにまだ芽も出ていない地の中から掘り出して食い散らされてしまったと残念無念の顔をされている。子育てに忙しい動物たちとの知恵比べが始まるのだ。

 その春の訪れの初めに、癌の末期と宣告されていた理事のお一人が、発見されてからたった半年で「緩解しましたよ。がんの細胞は体の中にはありませんから抗がん剤の治療の必要はありません」と言われ、信ずることができずに本人と家族たちは「先生はあんなこというけど、もう治療の手段もなくて治療から見放されたのだ」と誤解し、葬式の心配までしていたというのに・・・なんということだ。末期のそれも最も治療困難な悪性リンパ腫が抗がん剤治療2クールで緩解するなんてことがあるのか、とは素人であればだれもがまず思うことである。

それが治ったというのだ(再発の危険性はもちろん残るのだろうが・・・)とりあえず今は抗がん剤治療の必要はないと言われたのである。

 これ以上の喜びがあるのだろうか。本人も友人たちも、家族も悠々の仲間たちも、祈り、体調を気にかけ、体力をつけるために全面的に協力を惜しまなかった。しかし1年はかかると覚悟していた療養生活がたったの半年で収束に至ったのである。

悠々ではみなで大喜びして本人を迎え、早速快気祝いをケーキとお茶で祝った!皆の顔が喜びではじけていた。

 大切な大切な仲間のお一人が生き返ったのである。これを奇跡と言わずして何と言おうか・・・

風の谷〜泰阜村   
   過疎山村における福祉民営化の意味

 山陰・鳥取の豪雪の映像を見ながら、その地に住む友の身を想い、わが村と同じような過疎山村の奥深くに住むお年寄りの身を想う。かつて泰阜村にも80僂箸いβ臉磴降ったことがあった。その時多くのお年寄りを失った。重機の十分でない村の除雪は、まず県道を開けることから始まる。役場の職員は集合を掛けられ、山奥に一人取り残されたお年寄りの家の私道(玄関から村道まで)の雪かきで役場は当直を残して空になる。動ける者たちは(それがたとえ年寄りであろうと子供たちであろうと)みな、腰まで埋まる雪をかいた。私は悠々の年寄りのことが心配で1組の着替えとタオルをリュックに詰め、その上にペットのパピヨンを入れて、腰まで埋まる深い雪をラッセルしながら、殆ど一山を転んでは雪に埋まり、もがきながら2時間かけて悠々までたどり着いた。着いてみるとさすが悠々スタッフ!大雪の中をスコップで雪かきしながら車を県道まで出し、道をふさぐ竹を鉈で切り分けながら、各々駆けつけていた。この責任感!感謝!

 悠々の年寄りたちは「こんな日にわしらは飯が食えるのか・・・」と心配だったという。着雪による停電や流通経路が断たれた2,3日、市場もスーパーも開店休業状態であった。

 私たち悠々は、薪ストーブの上に大鍋を乗せ、戦時中さながらに雑炊を炊いたりすいとんを食べたりして凌いでいた。雪が融けるまで、じっと村道が開くまでの辛抱であった。スタッフ達が悠々のお年寄りのために働いていることを知った理事たちは、悠々の広い駐車場と玄関までの雪かきに駆け付けた。次いで理事の二人は我が家の庭で雪にすっぽり埋まった我が愛車を掻き出し、雪の重みで村道をふさいでいた竹林を鉈や鋸チェーンソーで、見事切り開いていてくれていた。

 黙って礼の一つを言う暇もないほど素早く、さり気なく殆ど絶望的であった単身独居老人の(夫は都会に単身赴任中)我が家の危機を救い、その2,3日後に(山中ただ1軒建つ)我が家の前の村道を除雪車が走った。嬉しくて頭が下がり涙がこぼれた。

 助け合いとはこのようなことを言うのかと、都会育ちの移住者である私は身をもって教えられた。しかしその彼らも今は70代後半、次々と病に倒れ、地域の絆もボロボロと千切れていく中で、この村の年寄りはどのように生きていくのかを改めて思う。

 やはり、山中で一人取り残される人たちは、災害の時だけでなく、日常的に避難小屋のようなところに出入りして身を寄せ合って生きる術を手にするべきではないか。

 自分たちの手で助け合って生きる術を、日常的に集落ごと(小学校区ー年寄りが徒歩で移動可能な距離)に常設すべきではないか、とTV画面を見ながら思ったことであった。

 昨日は「家の中に一人でじっとしていると寂しくて生きている気がしない。土曜日と日曜日は悠々でご飯を食べられないかな」と言って70代の若年寄り(少しご不自由を抱えている)が顔を覗かせた。少しづつ少しづつ「悠々の日常性」の温かさの意味が、近隣の住民にひたひたと染みわたっているようである。

風の谷〜泰阜村     
   「生きた憲法25条」

 久しぶりに「悠々」に戻った。平熱に下がり時々咳がコホンと出るが、厳重なマスクをして入居者の顔を見て歩いた。私より2~3日インフルエンザ罹患の遅かった90代ご夫婦は、まだ自室に隔離されたままであったが、それ以外は病を抱えておられるものの、いつも通りの顔で、「ほんに久しぶりだな、心配しておったで、私らより先に往かれたらどうしようかと思っていた」と次々とお見舞いの言葉を頂いて胸が熱くなった。この私の身を本当に心配してくれていたのは、この年寄り達であったのだと、あらためて管理者としての健康管理が、お年寄りたちの安心にこれほど重いものであったのかと、肝に銘じたことであった。

 肝心な給料支払いなどの事務作業は、病を抱えた年寄りたちの通院介助等に振り回されながらのケアの合間に、スタッフが片付けていてくれたし、来所者たちの「ご馳走賄担当」スタッフがともに倒れて欠落した戦場のような悠々を、身を粉にして無事に動かしてくれた我がスタッフに感動した。そこには入居者に対する愛と責任感という「プロとしての矜持」を見た感がある。

 

 10日間ただ、ただ寝ているだけの時間を頂いて、熱で朦朧となった頭で、この先の「悠々」はどうあるべきかについて考えていた。「もし自分がこのまま死んでいったとしたら、何を残したいのか」をただひたすら考えていた。

 そこで一つの結論が突然ふっと浮かび上がってきた。

「生きた憲法25条」!

 そうだ,そうなんだ。私は現在75歳(昭和16年2月生)、戦前生まれの生き残りの最前線にいる人間なのだ。昭和19年に満州から着替え一つで引き揚げてきて、3歳になったばかりの私は、親戚の家をたらいまわしされながら、高射砲のある軍事基地を抱えた静岡県浜松で戦火の中を逃げ惑った。3歳だというのに、畑の中で死んだふりをしていろと言い聞かされて、畝のなかに身を伏せながらそっと目を上げたとき、機銃掃射を撃ってくる戦闘機の兵隊さんと目が合った。笑いながら ダダダと撃って飛んで行ったその目を、72年経った今も鮮明に思い出す。戦後は草を食べていた。サツマイモのツルはご馳走だった。捕虜に取られたまま帰らない父を待って、借りた農地を農作業に慣れない母を手伝ってただ食べる為だけに死に物狂いで働いていた。(糞尿の入った肥桶を母と担ぐと、肥桶は小さな私の方に偏って、その飛沫がかかっていたことを忘れない・・・)

 普通の国民は、戦争に負けてすべてを失った。しかしそこには、土地を持つものと持たないものの格差がまずスタートとしてあった。戦後の復興とはまず経済復興であった。これに文句を唱えるものはだれもいなかったはずだ。しかし戦争で財を成しているものがいたことを、国民は知らなかった。その隠れていた財閥が戦後の復興を牽引して富国(強兵)にまっしぐらに突き進んで戦後70年が経った。

 あの世界大戦は、日本国民に何をもたらしたのか。

バブルの時代に生活が便利になった一時は確かにあった。しかしそのバブルはすぐにはじけて、国民の間にどんどん格差を広げた。今、過疎山村が産み育てて都会の工場に送り出した子供たちが定年になって、労働年齢からはじき出されようとしている。その年寄り達を養えないという。消えた年金のことはもう言うまい。

 先の戦争で国民が手にしたたった一つの宝物のことを、改めてここに示したい!私は、この憲法を実現するために国民の一人として命を懸けている。「生きた憲法25条」でありたい!と願っている。

 

 みんな思い出して!

   聞いたこともないよという若者たちは耳を澄ませて胸に刻んで!

 憲法25条とはこのようなものなのだよ。国はこの憲法を守る義務があるのだよ。これが戦争で国民が勝ち得た宝なのだよ!

 

日本国憲法第25条(昭和二十一年十一月三日憲法発布)

 

        すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

        国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない

 

 

風の谷〜泰阜村     
    猛威なるかなインフルエンザ!

 所によれば何十年来、我が泰阜村でも5年ぶりぐらいの大寒波による積雪である。雪かきしても雪かきしても振り返れば真っ白に積り、咳と鼻水を垂らしながらの雪かきが祟って、大風邪を引き込んだらしい・・・。夜中にかけて熱は上がり翌朝39.3度まで上がったところで病院の休日救急に連れていかれた。インフルエンザA型だという。予防接種したんだけどな〜・・・.「流行ってますからね〜、吸入をしてから自宅でうがいと内服薬(PL顆粒+ミヤBM+プリンペラン+カロナール錠)を飲んで安静にしてください。お大事に」、「あッ、水が飲めないんでしたね。点滴していきましょうか」、「お願いします!」と助けられた。ところが翌日は39.9度に熱は上がるばかり.体温が40度に手が届くところまで行ったのは生まれて初めて・・・と言うことは、年かぁ〜.

 寄りによって先日前の席で久しぶりにおしゃべりを楽しんだ91歳M翁が、38.7度ということで急遽受診していたのである。「あ〜申し訳ない。悠々の黴菌の主は我かな・・・そうに違いない.申し訳ない」との思いで点滴を受けていたのだが、翌日にはインフルエンザの治療薬がよく効いて、36度代に落ち着き、食事も食べているとのことで、ほっとする。

 今年の年始が明けてすぐに、理事の一人である我が夫もインフルエンザB型に罹患、急遽単身赴任中の大宮に出かけて看病に精を出したばかりだったが、AとBでは型が違うので夫からうつったのではなさそうだし、今年は泰阜中学校も学級閉鎖がでたということで、泰阜じゅうおちおち出かけることもできないでいる。

 その中を明日、神奈川県逗子から80歳の翁(翁はちょっと若すぎたかな?)が、永住入居目的で見学に来られる。

大丈夫かな、お風邪をうつさない様に細心の注意を払い、祈るしかない。こちらの状況をお伝えしたが、是非にと言うことである。有難いことである。

風の谷〜泰阜村   
   海のない南信州にトロ箱満杯の鯛の贈り物!

 昨日、突然にトロ箱満杯の黒鯛が5尾、巨大な出世魚の鱸が1尾、氷詰めの宅急便で届いた。開けてびっくり仰天とはこのことか、スタッフも入居者もお魚屋さんに行ったことがない。最近はスーパーでも切り身しか目にしたことがないので、その一尾の美しい姿を目にしたことがなかった。トロ箱を皆で覗きながら感動し大騒ぎとなった。

 一昨日友人から電話で「瀬戸内海の朝採りの魚が手に入ったんだけど、氷詰めにしてあるからそのままそちらに送っていいかな?」と言う。「いいもなにも、そんな贈り物聞いたこともない。南信州では魚の贈り物なんて見たことも聞いたこともないんだよ。嬉しい!送ってください」と懇願した。ああ〜神様・仏様どんなにスタッフと入居者たちが喜ぶかと思い、それからというもの「瀬戸内海の朝採りのお魚がね、明日トロ箱で届くんだって」「キャー嬉しい、早く見たい、瀬戸内海のお魚!」とスタッフは大喜び。

 早速悠々の料理人さんが「最近使ってないので刺身包丁が切れん・・」とつぶやきながら、その日の夕食に黒鯛の刺身を皆で堪能した。92歳のおじいちゃんも88歳のおばあちゃんも「ホンにわしは生きてる間に鯛の刺身を口にしたことはなかった。こんな日が来るなんて思いもしなかった。有難い、ホンに有難い」と言う。あまりに大量なので、スタッフも役員さんもおすそ分けを頂いてニコニコして家に帰った。「久しぶりにかあちゃんと食べるかな・・・」

 その喜ぶさまを見て、山郷の民たちは鯛の刺身(高級魚)など日頃口にはしないのだとつくづく思ったことであった。

悠々には様々なプレゼントが「ほんの気持ち」と言いながら届けられる。最近は、ミカン、柿、リンゴ、ゆず、干し柿、鹿肉、イノシシ肉、刺身こんにゃく、蜂の子の佃煮、源助菜の漬物、その他名も知らぬお野菜の数々、それから高級焼肉も頂いた。本当はこんな贅沢ないしょがよかったかな〜。

 届けられるそのお気持ち、愛に包まれてスタッフも入居者もこの世の幸せを頂いている。

「わしはこんな幸せ今まで貰ったことがないに、有難うございます。」と口々に言うお年寄りと働くスタッフの笑顔届けます。

 

 皆さま、本当に有難うございました。今年もお世話になりました。来る年が皆様に幸せが訪れますように祈ります。

                                                     合掌

 

 

風の谷〜泰阜村   
  90代男性たちの生きる意味 考

 昨日は恒例の「大祓い」の式が執り行われ、最近入居なさった90代のご夫婦が感動しておられた。

「大祓い」は、山郷に住む民たちが山の神々にこの1年の罪咎を払い、来る年の幸いを祈る伝統行事である。神主様の祝詞に頭を下げ玉ぐしを捧げて、あらためて自分たちが山の恵みを受けていたこと、災害や危険に満ちた山での生活に山の神々の守りを祈ることを通して、山とそこに住む民の生活が決して安定したものでないことを自覚する祭りでもある。

 

 

 式の後、入居者や理事とスタッフ、近隣のお年寄り達との「直会(なおらい)」で御下がりのお神酒やお供物の鯛を分かち合いながら、顔見知りの人々との談笑を楽しんだ。

 「久しぶりに楽しんだ。これからも呼んでください」と、送迎車の中で近隣のお年寄りたちが赤い顔をして口々に言う。その笑顔を見ながら、介護保険サービスにこの生活に密着した年中行事の導入はあったかな〜・・・と思う。会費2千円、もちろん大赤字である。実はこの予算について、理事長と会計責任者の役員とのあいだに丁々発止の議論があった。しかしお金には代えられない宝があるのだ。「お年寄りの心からの笑顔を見たい」と懇願し、説得し、乗り切った。

入居者たちはみな80代後半から90代である。ご近所の顔見知りたちとのこんなに楽しい会に、90代の男性入居者たちがあたりまえのように一杯飲みながら団らんして、人としての交わりを取り戻すなんて、近年林立する高齢者施設にあったかな〜・・・と思いながら、暖かな和みの中で私も久しぶりに幸せを味わった。

 その夜一人の92歳の入居者に呼ばれた。「もう死にたいと思っていた。自分は生きすぎたと思っていた。しかし今日のような楽しい行事に参加して、もう少しこの世を楽しんでもいいかなと思えた。明日からはご飯をよく食べて、散歩してお迎えが来るまで生きてみようと思う。先生よろしくお願いします。」92歳男性、体重36Kg栄養失調の様々な兆候が出ていた。この体で96歳の重度認知症の妻の面倒を看ていた。コンビニでおかゆを買って食べていた。時々倒れて近医で点滴を打って生き延びてきたという。

 人はいろいろな事情を抱えて生きている。たとえ90代になっても人間らしい交わりが生きる勇気を与えるのだと改めて思ったことであった。

 

 

風の谷〜泰阜村           
新しい仲間たちが加わって

 11月から新しいお仲間が加わって、久しぶりに悠々に賑やかな声が戻ってきた。現在入居者は7人、スタッフ4人、デイサロン利用者(平日の9時〜4時頃まで)1人に、時々悠々食堂を利用する入居者の家族、近隣のお年寄り達、月に何組かの視察見学者が加わって、食事やお茶の時間には和やかな雰囲気の中で笑い声が絶えない。暖炉に火が入って、その前で新聞を読むご夫婦は(夫92歳、妻96歳)最近お入りになられた方たちである。9月に入居されたご夫婦は(夫90歳、妻88歳)、高専賃と呼ばれる村のアパートから移ってきた。この方たちが悠々に入居されて最初の日に口にしたことは「やっとゆっくり眠った。あちらでは夜当直がいないので、夜不安になる認知症の方々が(どうも複数いるらしい)部屋に入ってきて騒ぐので、眠れなかった。」というのである。

 悠々にも重い認知症の方がいないわけではないが、当直の方が対応してくださるので昼夜逆転の方がロビーに出てきても、そっと自室に誘導してくださる。夜中にトイレに行こうとして転倒するかたが時にいるが(ドーンと音がするので駆けつけて覗いて下さる)、お怪我がなければ、抱き起してベットに寝かせてくださる。糞尿まみれになっていた場合や異常が起こっていた場合には、ただちに理事長ならびに看護師やヘルパーに緊急連絡が入り、必ず5分以内に駆け付け病院に緊急搬送するかどうかを判断し、処置する。

 最低限のスタッフで、しかし最高の安心を与えている・・・と入居されたお年寄りが口にすることである。

特別なことをしているわけではない。必要なことをただちに解決するが、いつもすべてのスタッフが待機しているわけではない。「これで月額15万5千円はあまりにも安すぎる。病院への付き添い介助(往復の送迎付き)もマルメ(生活上のすべての介助込)なので、有難い。ついでに買い物も付き添い付きでいつでも欲しいものが手に入るなんて・・・申し訳ない、有難い」と言うのだ。

 入居者はこのようなことを体験すると1週間ぐらいで安心しきった穏やかな顔になる。高専賃から移ってこられたご夫婦を、村役場の方たちが目の当たりにして「たった1週間でこうも変わるのか・・・」と言われたそうである。

 私たちは、たとえ年を取られていてご不自由をあれこれ抱えておられていても、人間として大切に思っているだけのことである。

現在入居中の癌の治療中のかた⁽77歳)を抱えている。2週ごとの通院の付き添いは朝8時から帰りは午後4時頃になる。一緒にご家族を精神的に支えながらともに闘病に心を合わせる。どんなことをしても治って笑顔を取り戻したい。

 夫婦で家に閉じこもっているよりもと、悠々のゆったりとした普通の生活の(仲間の)中で闘病への支援をしている。主治医の指示を仰ぎながら三食を栄養豊かな食事にと工夫を怠らない。こうやって悠々のスタッフも精神的にサポートしながら、共に戦う家族だと思っていただけたら嬉しい。

 

風の谷〜泰阜村   
   山の民たちの重い枷について

 冬支度が始まった。村役の一つ道路愛護である。前日の雨で重くなった濡れ落ち葉を、すべての村道と側溝から掻き出して山に返す作業であった。今年は我が限界集落(9戸)のうち、2戸の戸主が重い障害と難治性の病を負ったため、力仕事をする男手を失った。その上今回は大事な所用でもう一戸がご夫婦で出かけられるということで、男手が3人も欠け、代わりに出てきた女衆が集まって皆が顔を見合わせた。急坂な山道を走る村道いっぱいに降り積もった落ち葉は、膝上までの深さの側溝に詰まり、いつもの軽愚痴を叩くものは誰もいず黙々と作業を続けた。みんな知っている。この落ち葉を撫でるように掃き清めておかなければ、雪が来て道路の落ち葉の上に降り積もったとき、落ち葉とともに急坂な坂道を谷底まで滑り落ちてしまうことを。

 しかしそれを知っている1戸の方は、事前にご夫婦で随分たくさんの範囲を掃き清めていたのだが、何が何が、二、三日風が吹き雨が降って、すっかりもとに戻っていたのだったが、その気持ちを汲んで誰も何一つ文句を言うものはいない。

 

 

 今回は村からも応援があって、がけ崩れの岩を重機で片付けてあり、女手で片付ける重労働がなくて皆でホット吐息をついた。

振り返れば10年前はみな若かったな〜とつくづく思う。一山をぐるりと回る村道+県道+山中深く走っている井水+神社+大峰山公園(+参道)一体何キロあるのだろうか。腰をかがめ湿った落ち葉を側溝からすべて掻き出して、箕(み・穀類をあおって殻・塵などを分け取り除く農具.竹・藤・桜などの皮を編んで作る)に入れて中腰で山に返すこの作業は、人手もなくお金もない貧しい村の村役という名の税金である。この緑豊かな自然に恵まれた美しい国・日本の7割を占める山々は、そこに住む今は年老いた村人たちの重労働によって守られていることを一体何人の国民が知っているのだろうか.村にいる限り死ぬまで続く重い枷を嫌がって若者たちが村から出ていくというが、都会でお金を払って筋力トレーニングやジョギングを楽しんでいる人たちに届いているのだろうか。あなたたちの吸っている酸素が、この山々の緑から届けられていることを!この度聞こえてくる環境税という増税から、私たち山の民には除外してもらいたい!!

 安倍さん.お願いがあります.もっともっと自分の国民の苦しみについて深い理解と愛情を注いでください。私たちは今あたりまえのように村を守っていますが、年老いて(現在80代が3割、70代4割、60代2割)年寄りが居なくなってしまったら、日本の国から豊かな緑はおそらく無くなってしまうのでしょうから。

風の谷〜泰阜村  
   「これからは新しい風が吹くよ」に励まされ・・・

 地域交流センター悠々の第9回通常総会は、「どうも潰れるらしい」との前評判の嵐の影響をまともに受け、心配げな顔をした組合員たちが、まるでお通夜の晩のような顔をして席に着いて始まった。ご来賓の皆様も、副村長、村議会議長、福祉課長、県中小企業団体中央会担当者が揃い、これもまたこの赤字経営をどう乗り越えるつもりかと、心配げな顔をして席に着かれていた。

 理事長のあいさつはこんな言葉で始まった。

「思い起こせば、社会福祉方法論の研究者であった私が、地域住民が集まって『住み慣れた地で、顔見知りの人たちに囲まれて最後の日まで暮らしたい』という高齢者たちの願いを形にするために、自分たち村民の手で運営管理するという計画書を、泰阜村村長にプレゼンテーションしてから12年という月日が経ちました。

 ここまでの日々、当初はまだ若かった組合員の皆様がワッセワッセとやってきて、それはそれは賑やかな日々がありました。10年経って80代90代となられた組合員たちは,皆あちこちに故障を抱え病院通いの身を抱えるようになり、悠々のボランティアどころではなくなって悠々は寂しくなりました。当初の村外(都会)のリピーターの方たちも年齢を重ね、泰阜村までの距離の遠さが心身共に重荷になり、「そこまではとても行けない」と言われるようになりました。

 10年という時間がこれほど重いものであるということは、誤算であったと思います。

 この利用者の減少は悠々の経営を直撃し、この1年は見事な赤字となりました。本年度は前期の高額寄付による剰余金で赤字をカヴァできましたが、村民の方々の入居者の増加、食堂利用者の増加をどう工夫するかが課題であると思います。

 これまでは組合員の皆様の運営管理への温かい奉仕と季節のお野菜の寄付、村役場からの補助金援助、役員の皆様の無私の奉仕の賜物をいただいたおかげで、ここまで来ることができました。

 しかしこの危機的状況の最中、ここにきて立て続けに5名の入居者が表れ、天の助けとはこのようなことかと涙を流すほどの安堵をいただきました。悠々に人生を託されたこの大切なお年寄りのために身命をなげうって精進する覚悟をあらたにいたしました。今後とも変わらぬサポートをよろしくお願いいたします。」

 

 帰途に就いた組合員のお一人が動かれ、病に伏している他の組合員に悠々の窮状を伝えられたとのことが聞かれました。そこでは住民たちに悠々のサービスの中身を説明し、悠々の利用を促進するようにお誘いの声掛けをしていただいているようでした。

 これこそ天が動かれ、人々の心の中の愛に火をつけてくださったのだと感じ、心折れた理事長にもう一度やる気を起こす「新しい風が吹く」見えぬ力を感じました。

 悠々のモデルでもあったスウェーデンの「高齢者協同組合」は10年という節目に公的福祉制度(介護保険に似たもの)によって消滅しましたが、過疎山村の地にあって「悠々」はなぜか復活するのですね。

風の谷〜泰阜村   
   第9回通常総会を迎えて

 南アルプスに雪の稜線、山里に真っ赤な柿すだれの立ち木の点在、山奥の村道は落ち葉の絨毯・・・美しくすっかり冬の顔をした泰阜の森の、静けさの中に渡り鳥の声が響く。

 11月23日に通常総会を迎えた悠々の理事長、総会資料作成に追われている。昨年は高齢の入居者をつぎつぎとお見送りして、一時入居者が3人になったことが影響し、赤字が膨らんだ。驚くことに10月以降一気に入居者6名が新たに加わることになり悠々は計8人の入居者で今度は少ないスタッフたちから悲鳴が上がる。デイサロン(組合員さんたちの利用のため無料だが・・・)もご利用者が増え来季の経営見通しは行けるとみたが、今期の事業報告と決算報告をまとめていると、生き物(人間もレッキとした生き物)を扱っている自分の経営能力のなさをつくづく思い知らされる。勇を越して正直にありのままを組合員に告げるつもりである。

 だが問題は一つある。今期事業の赤字の主要因が食堂にあることが判明した。今年度の事業収入86万円に対し(利用者が少なかったため・・・)、料理人の給料が年収260万円、仕入れ収入が183万円・・・(山ほどのお野菜の差し入れがあったにもかかわらず)。(悠々食堂、皆を喜ばせたい一心で贅沢したかな〜)、開設当初の様に無給で働く理事長が毎日3度の食事を作るか・・・と心が揺れ動く(出来もしないのに・・・)。

 この理事長75歳(あと数ヶ月で76歳に突入)意欲ばかりがある。調理は好きである(時々うまいと喜ばれることもある)。管理・事務作業よりもずっと、ずーっと好きである。しかしあまりに人手が少なく、それをあちこちカヴァーしていると、一日も休んでいないことに気づく。

使用している従業員は勤務条件に関する様々な規制があって守られているが、経営管理者たるもの、死ぬほど働いても誰からも守られない。過労死してもだれにも文句を言えない(この間コンビニの店長がTVで訴えていた)。組合員からは経営責任を厳しく追及されて総会で棒立ちになったこともあった。

 これで跡継ぎのことを聞かれても、自分でさえ「やめておけ」とアドバイスしそう・・・。

地域交流センター「悠々」の事業は、日本初の試みである。

 「住み慣れた地で、顔見知りの人たちに囲まれて最後まで住み続ける。血のつながりはないけれど、心満たされて最後を迎えることが出来る」そんなことを夢見てこの事業を立ち上げようと思ったのが2004年5月。大学の教員だった(武士の商売とよく言われた)が、もう12年経つ。

 悠々の入居者たちのゆったりと幸せそうな笑顔をみた人はだれもが、「自分たちも最後は、悠々で迎えたい」というのだが、悠々のケアには国の補助のシステムはない。(村からは施設の維持管理費500、600万円を頂いていて、おそらくそれがなかったら、2年目に潰れていたと思う。)貧しい村にこれ以上の負担はかけられない。ケアの量(それも時間という量、質は問わない)ばかりではなく、その質にどのような補助金が可能なのか。貧しい中山間地域の夫を亡くした90歳以上の寡婦たちは、1ヶ月3万円程度の年金(福祉手当)で一人山中に取り残されているのを、安倍総理!ご存知でしょうか。

 


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