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風の谷〜泰阜村      
   台風一過とお年寄り達

 9月5日、大型台風の泰阜村直撃を免れたものの、その夕は賄いさんを早々に帰し、ヘルパーさんも夕食後のケア後には早々に自宅に帰した。泰阜村の外れから出勤予定の宿直Ma.さんにも、出勤途中に何があるかわからないのでと自宅待機を指示し、その夜は、我が理事長(単身なので)がペットとともに避難準備をリュックに整えて宿直交代することになった。

 強風の荒れ狂う音の最中、各入居者の様子を確認し、停電時には各部屋に置くランタン、食料、水を確認し、TV画面に見入っていた。深夜巡回ヘルパーの訪問が定時になっても来ないことを確認し、要介護4のMaさんのおむつ交換に入った。その後巡回ヘルパーさんが訪問され、驚いて「この台風の最中、危険なので来られないかと思いましたので、代わりにやっておきましたが・・・」

「いえどのようなことがあっても、上からの指示がない限り、私たちはなすべきことをせねばなりません」

「う〜ん、真っ暗な山道には突然の倒木、土砂崩れがありましたよ、真っ暗な道の陥没の中に落ちる可能性がありますよ、もうここでやめてください。」

「いえいえ、まだこの後3軒ありますので、お年寄りが待っていますので・・・」

 ただただ頭が下がった。泰阜村の在宅福祉は、このような献身的なヘルパーさんの心意気に支えられているのだ。ありがたいことである。悠々のお年寄りたちは、理事長が泊まるというのでちょっとだけ嬉しそうな顔をしていた。まるで母さんが傍にいてくれる子供のような顔をして眠りについていた。

 その夜が明け、泰阜村でも各地で土砂崩れのため通行止め、倒木のための停電、電話線の断線などが相次ぎ、村の建設係の青年たちが、車で走り回っているのに出会った。あ〜、この方たちも昨夜から村中の山道を走り回りながら、村民の安否を確かめていたのだと、改めて住民の安全と安心のために働く人たちに私たちが支えられているのだと知った。

 この村の山奥に住む、独り暮らしのお年寄りたちの不安に思いをはせながら、天に祈った。

 「どうぞこの村の・・・、全国の人たちの安全が守られますようにと」 

風の谷〜泰阜村    
  キャリアデー(地元の子供たちの職場体験)の一日

 台風の最中、地元の中学生の「キャリアデー」と呼ばれる職場体験学習が3日間行われた.緊張でカチカチになった中学2年生、90歳を過ぎたお年寄りと話をしたのは初めてだと言う.そして90歳を過ぎても元気なお年寄りを始めてみたという.

 悠々では、初日に自己紹介をかねてお年寄りの各個室を訪問し、お話を聞くという仕事を与えられる.今回のテーマは「昔、若かったころどんな暮らしをしていたのですか?」とお尋ねすることになった.

 そこで子供たちは想像もしなかったようなこの村の過疎山村の子供時代、どのようなものを食べ(桑の実がおやつだったなど)、どのような歌をうたい、どのようなことが辛かったかについて聞いた.

 この村にまだ県道がなく橋もなく、トンネルもなく、ひたすら急坂な山の崖路を伝い歩いて尋常小学校に通ったこと.遠いお店にお使いに出されて暗くなった時、山道で動物の鳴き声に震え上がったこと.近くに動物のごそごそという物音に腰が抜けて、それはそれは恐ろしかったこと・・・を昔語りに聞かされていた.

 一人の御婆ちゃんからは鋭い問いを頂いた.

「あんたたちは、将来大きくなったら何になりたいのかね」.

T.S.さん「このような人のお世話をするような仕事をしたいです.」S.K.君「まだわからないです.」

 「そうかね、そうかね.このような年寄りのとこに行くときには、歌の一つも歌えにゃいかんだに.わしが昔入院していた時、若い看護師さんがいてな、癌で亡くなる前にその年寄りの傍で北国の春を歌ってやってな、その年寄りも一緒に歌ってな.こんな嬉しいことはないと泣いておったで・・・」

 帰るまでその子たちは悠々の年寄りの前で歌をうたえなかったけれど、帰りには、お礼にと言ってゼリーのおやつを作って食べさせていた。年寄りたちはどんな立派なおやつより、この子供たちの心配りが嬉しいと喜んだ.

 帰途、別れを惜しんでいるお年寄り達を見て、このように子供たちと日常的に触れ合える機会に飢えているのだと感じて、過疎の村の少子高齢化の厳しさを知ったのであった.

 理事長「また、機会があったら遊びに来てね」「はあ〜い!」元気な声を皆で見送って・・・

ひ孫が帰るような気持ちを味わったことであった。

 

風の谷〜泰阜村    
     ケアする者がバーンアウトするとき

 その日はとうとうやってきた。85歳Kさん要介護1、81歳の時自宅で転倒し病院に担ぎ込まれたが、骨粗鬆症で手術できないと安静を強いられ、寝たきりになった。それから4年間、3ヶ月事に特養、老健をたらいまわしになってきた。「悠々」が開いているということで問い合わせがあったが、転居先からの医療情報、介護情報がまったく届かない。自走用の車椅子は自分で購入、食事は自立しているというがおかゆを要求+朝は牛乳を人肌の暖かさで、昼はお茶、夜は白湯でと指示が細かい。その根拠が書いてない。何か問題を抱えているのか問い合わせるが「別に、特に何にもありません」と口を濁される。盆前の悠々は人出がなく、介護者一人で朝ケアに30分もかかる要介護3の方(食事に介助が居るので実質的には殆ど要介護4だが)をすでに2人も抱えていて、これ以上の受け入れはできないとスタッフに泣きを入れられている。(捜しても悠々通勤内に人手が全くない)

 そこで、ご家族を呼んで何故家に帰れないのか伺った。「ご自宅で巡回ヘルパーさんを頼めば長男(61歳)さんとお孫さん(30代)なら要介護1の御婆ちゃんをお家で看れそうだが・・・」

 そう言われてご長男さんは、しばしの間絶句し理事長の私の目をじっと見つめた。「もう受け入れてくれるところがどこにもないのです。3ヶ月事に家族が家に帰せないのなら自分で捜せと言われる。この4年間3ヶ月事に仕事の合間を縫って探し回ることに疲れ果てた。助けてください」という。「なぜお家には帰せないのですか?」と再度問うと、重い口を開かれた。

 「自分の嫁は故あって家を出た。兄弟二人で妹は神奈川で施設で働いている。自分は建設業で疲れ果てて帰宅する。子供たちは(孫)一人は病弱、もう一人は施設に入居している・・・。自分も家族も精神的な病を抱えている・・・」と重い口を開いた。

 このご家族の長期間にわたる精神的な苦しみを思って絶句した。「ご家族の皆様、長い間どれほど大変だったでしょうね。辛いことを伺いました。お許しください。」と言ってからしばしの間自問した。この方を御受け入れするとして、私が何ができるか。スタッフはどこまで耐えられるか。Kさんは精神的ケアが相当大変なのかもしれない。

 ケアマネさんと相談すると「悠々」が駄目なら精神の施設があるが・・・と言われる。「その前に『悠々』で知恵を凝らし全力を尽くしてみようか・・・」とスタッフに頭を下げる。

 案の定それからの日々、夜勤の当直男性に夜中に呼び出され、「『部屋の電気をつけてくれ、トイレに連れて行って汚れたパットを変えてくれ、抱えて寝かしてくれ』と言われるが、どうすりゃいいんだ先生」

「わかりました。すぐ伺います」と飛んでいって「当直のおじさんたちは素人なのでケアをしてはいけないことになっているのです」と説明し、「この施設は人出がないので夜のヘルパーさんを雇えないのです。申し訳ありませんが、ご自分でできることは頑張って自分でやってみて下さいませんか?」とお願いしてみた。

「ふ〜ん。あんたは誰だね」という「私はこの施設であなたを安全にケアできるのか、できないのかを判断し、場合によってはご自分の家にお帰り頂くかを決める理事長の本田です」と伝えると「ふ〜ん」と言われる。

 「ご自分でトイレに行けますか?見ていますからやってみましょうか?」ちゃんとベッドから起き上がり車椅子にトランスし、自走してトイレに行き、立ち上がって下半身の更衣動作をし、パットを変えベッドに戻って自分で布団をかぶって寝ることができた。

 「よかった。ご自分でできますね。自分でできることは頑張って自分でしてみて下さいね。できないことを私たちがお手伝いいたしますので大丈夫ですよ」

 これがこの夜の顛末であった。理事長の賄い当番のときには、「牛乳が人肌じゃないからやり直し、少しの時間なのだからじっと傍に立ってみていなさい。ご飯が少し硬いけど、あんたはご飯の炊き方を知っておるのかね。ご飯の水加減は手のひらを水につけて手のひらすれすれに水を張る。そうしてるのかね・・・」この試練はまだまだ続く・・・スタッフは一日中これらの鋭い言葉にひどく気づつけられバーンアウトでやめそう・・・・。さてどうするか理事長!

風の谷〜泰阜村
泰阜村の初盆まいり

 昼の猛暑は、日本列島いずこも同じだが、この泰阜村、朝の4時にはクーラーのきいた室内(27度に設定)より外気温のほうが圧倒的に涼しい!窓の外の森からはカナカナゼミの声が聞こえ、もう秋なのだよと知らせが届く。

 悠々のお年寄り達も、いつになったら雨がくるやらと祈りにも似たため息をつく。

泰阜村の野菜畑が赤茶色に焼けて、畑一面枯れてしまったところが目に付くようになった。山間の田んぼの稲もどことなく勢いがなく黄色っぽい、生育がいつもの年より遅れているのかと思う。

 悠々のアジサイは花が開いたまま枯れて茶色になったまま立っている。

今年も午後になると、毎日のように救急車の鳴らす音が里山に響かない日はなかった。毎日毎日その音が里山にこだますると、どこかでまたお年寄りが熱中症で倒れられたかと心が騒ぐ。

 今年は、悠々のスタッフにも訃報が届き、大切な方々が亡くなって8月14日は初盆参りのために、スタッフの影が消える。

肝心の社協も休み、悠々の重要なスタッフも御身内の方々が亡くなって、初盆参りが重なった。

 

 さて、重度介助のお年寄りを抱えた悠々をどうするか。365日、助けを必要とするお年寄りを抱え、残るは理事長一人である。

今年は、日中のケアと賄い、夜勤当直を連続で担当を引き受けた。労働基準法は、管理者には基準法が適応されていないとかで、安心して24時間眠らず休まず働けるらしい、その上無給だ・・・・。

 

 今年もたくさんのお年寄りが逝かれた。寂しさがじ〜んと胸に沁みてくる。そのお一人お一人がこの村の力仕事を引き受けていて、誰からもこれといって褒められもせず、黙々と村の管理をしていたのだと聞く。

 その方々が一握りの灰になってしまって、力仕事の慣れない若い衆が残って・・・さて残されたこの村は誰が支えるのか考えたい。

風の谷〜泰阜村   
   家族未満友人以上のケア

 脳梗塞・左片麻痺を発症したM翁が、無事リハビリを終えて一昨日悠々に帰ってきた。認知症が少し重くなり食事も刻みトロミ食全介助となった。そこで病院で行われていた既成のトロミ食と昼間の車椅子拘束自走の生活を変更することにした。

 まず、寸胴鍋にたっぷりの水を入れ、切り出し昆布1袋+かつを節厚削り1袋+どんこの干しシイタケ一握りで半日がかりでだしをとり、アイスキューブに入れ保存。基本的にはこのスープですべての料理を煮ることにした。

 帰ってから一番に、このスープで炊いた雑炊(たくさんの野菜とささみのみじん切り入り)にトロミ剤を少し混ぜ口に運んだ(塩・醤油等の調味料一切なし)。本人「美味しい!」と一人でパクパク食べはじめた。完食である。スタッフ一同それを見守りながら「やっぱり本当に美味しいものは、介助しなくても自分で食べるんだね。」と確信した。この日はこれにカボチャの煮つけを一つ、スープで塩気を抜いたウナギのかば焼きを潰しスープで緩めたものに+トロミ剤少々が混ぜられたこころばかりのご馳走となった。「退院祝いね」と伝えるとニコっと笑った。

 さて問題は昼間の車椅子に乗っけたまま拘束帯で縛り、室内を自由に動き回らせておくというケアをどうするかである。

92歳の彼は、もう4年も前から3食とお茶の時間以外はベッドで寝ている習慣であった。リハビリ病院では、昼間は覚醒させてリハビリする目的のために、ずっと車椅子に騎乗する生活であった。おかげで歩行器歩行が見守りで可能となり、食事が椅子に座って摂れるようになり、ポータブルトイレに見守りが必要だが自分でトランスが可能となった。たった1ヶ月間でこの年寄りをここまで復活させ得たリハビリ訓練の効果にはあらためて脱帽した。

 しかし、お家に帰ったら彼はどうするであろうか。疲れを訴えベットに戻りたがる彼を見て、私たちスタッフは覚悟した、少しぐらいケアが重くなっても、3回の食事を皆と一緒に食堂で時間をかけて食べ、10時と3時のお茶も食堂で時間をかけておしゃべりして過ごす平均5時間でいいことにしようか・・・・「5時間、充分だよね〜。92歳なんだもの。ここは死ぬまで暮らす彼の家なんだものね。ゆっくりしてもいいよね。」

 これが「悠々的ケア」の基本的考え方である。その上スタッフはみな優しい。

 

 

風の谷〜泰阜村     
    染み入る言葉を頂いて

昨日は蒸し暑い一日だった。悠々ではお年寄りが寒がるこの季節、扇風機さえおけず、ましてやクーラーもかけない。私たちスタッフは大汗を拭きながら「暑いね、暑いね」を連発し「もうこれ以上脱ぐものはないし、風はそよとも吹かんし、あはは」と愚痴っていると、M.M. おばあちゃん「今日は暑いね〜、わしはやっとガラス窓を開けて網戸にしたよ」という。「Mさん、あんたはまだ腹巻と股引はいてんのかね」と聞くと「勿論さ、股引も履いてる。これは一年中取れんのさ、腹巻とると下痢をするし、股引脱ぐと足元が冷えて冷えて寝むれんのさ」という。「そうか、でも真冬のダウンケットはもう外そうよ。夏掛けの上に毛布を掛けて調節しようか」というと。今度はI.M.おばあちゃんも声をそろえて「駄目だ!腹巻はしとらんけど、わしも股引を一年中脱いだことはないよ。冬布団も昼はくるくると足元に撒いておいて、朝晩はそれを引っ張りあげて寝るんサ」という「朝晩は冷えるからの」・・・「そうなんだね、わかった」私たちスタッフは、こうやってお年寄りと私たちの皮膚感覚のずれが根本的に違い、お年寄りが暑さ寒さを自由に調整して生きているのだと知ったのであった。

 その会話の中で、「私はこの年まで本当に苦労して生きてきた。農家に嫁に来てから、70年間お父ちゃんと一緒におれたのはたった10年間だった。お父ちゃんはトンネル堀の塵肺で倒れるまでずっと出稼ぎにでて家計をささえてきてくれた。残された私は一人で子供を育てながら家を守らにゃならんだった。田の代掻きが出来んで、隣のおじいちゃんによう笑われておった。そのおじいちゃんは見ておれんと言って、ほんに親切に代掻きを手伝ってくれたもんだった。わしは本当に親切ないい人に助けてもらってここまで来たと思う。お父ちゃんが帰ってきてからの最後の2年は入院していて、一日中ずーっと傍に付き添っていた。親戚の嫁さんが「たまには変わってやらにゃ〜」と言われたけれど、お父ちゃんが「あれが一生懸命世話をしてくれるから、M子でいい」と断ってくれた。「嬉しかった」という。

 つづいて「生きているということは本当に大変な事。こんな年まで生きておって家族に迷惑を掛けて申し訳ないと思っておった。自分から『施設に入れてくれ』と頼まにゃいかん歳が来たのだと思っておった。だが今度息子から『手術のために入院するからどこかに預けたい』と言われた時、じっと息子の目を見た。息子もそれ以上何も言わず、じっとわしの目を見ておった。とうとうその日が来たのだと知った。家を出るときわしは『ちょっと車を止めてくれ』と娘に頼み振り返って家を見た。70年も暮らしてきた家を見たかった。もうあの家を出たらこの家には帰れないのだと思った。辛かった。振り返ったら息子が一人門の前に出て、見送って居った」と涙を流しながら語ってくれた。

 施設に入るということの意味を私たちはもっともっと深く受け止めねばならないのだと知らされたのだった。

その後に続く言葉で、私たちも涙した。

「この年までいろんな施設を見て来たけれど、こんなゆったりと自分らしく過ごせる施設があるとは知らなんだ。私はここにきてもう思い残すことは何もなくなった。幸せにお迎えが来るまで待って入れると思う。ここのスタッフは、それぞれ顔が違うけれど、みんな本当に優しい一つの心だと思った。どうしたらこんな一つの心になれるのか知りたいもんだ。今度入居するAさんも(ご近所のお知り合いの方らしい)早く入ったらいいと思っている」

 10年目にこのような言葉を入居者から頂いた。この苦しい時に私たちは天からの励ましの言葉を頂けたのだ。ただ、ただ感謝‼

風の谷〜泰阜村    
   要介護4退院患者M氏をお迎えして

 2か月前に脳梗塞左麻痺重度で緊急入院し、何とか命を取り留めた92歳の男性が、リハビリ入院を終えて夫を待つ妻の下に帰ってくる...。要介護1だった彼は要介護4となったけれども、見守り付き歩行器歩行、介助付き嚥下食、見守りポータブルトイレと重度の介助付きの身になって戻ってきた。問題は精神的に自律神経失調症を抱えている90代妻との同室での生活である。

 可能な限りケアは私たちスタッフがやるので、緊急時の通報をお願いすることになる。

最後まで、ご家族を支えながら懸命の支援をお約束した。どんなに介護が重くなっても、長年連れ添ったご夫婦でともに残りの人生を過ごせるように私たちで、全力を尽くそうと思う。

 もうお一人時期を同じくして85歳の女性が永住入居を希望してこられた。81歳で転倒骨折し骨粗しょう症があると言うことで手術は受けられず絶対安静にして自然治癒を待つという医師のご判断で、4年の間寝たきりの3ヶ月事の施設移動が続いた。要介護度が1と言うことで特老には受け入れてもらえず、老健をたらいまわしにされていた。諸事情があって61歳の長男一人がこの母親の世話をしていた。他の家族はみな病や障害に倒れ、彼だけが家族の介護・療養を引き受けていたのだが、限界に来たとの訴えがあった。

そのお年寄り85歳要介護1をお受けすることになった。車椅子見守り介助の彼女の問題は、精神的問題を抱えているとの情報があるが、普通のお年寄りが4年間も施設を放浪して生きていなければならないなど、精神的におかしくならないほうがおかしいと思う。

 このお年寄り手がかかりそうだが大切にできるだろうか・・・大切にしようと思う。

 それにしてもスタッフの人員が足りない。朝ケアに一人のヘルパーが獅子奮闘しても30分もかかる。その方々を3人も抱えていてはスタッフがつぶれる。労働基準監督署の目も光っているし・・・理事長が賄い週2日と朝ケアをそれ以上抱えるなんてこといつまで続くことやら・・・と思う。せめて朝ケアだけでも介護保険サービスの巡回サービスをお願いしたいものである。

 社協も人材不測で振り回されている現状では、これもなかなか難しいとのことである。

さて、困っているご家族の支援を続けるためには、強力な人材を確保するという理事長の力量が求められる正念場にかかっているということであろう。

風の谷〜泰阜村      
   94歳自立女性の入居顛末

 この度、隣村から新しいお年寄りをお迎えすることになった。94歳女性自立三世代同居(泰阜村出身)。しかし同居のご長男が手術のために入院となり、その間転倒の恐れがあるお年寄りの見守りが出来なくなるのでと、1か月の短期入居でお預かりしていた。そのI.M.さんが1週間ほど悠々の暮らしを体験してこんなことを呟かれた。「わしは、自分では掃除も洗濯も何でもできるし、裏山の畑にも出て行って畑仕事もできるので、家族には迷惑を掛けないできたと思い込んでいたが、本当はやっぱり留守の間に転んだら困ると心配かけておったんだね〜」。しばらく様子を見ているとかすれ声が異常に小さい。悠々で朝昼晩と10時と3時のお茶タイムに食堂に出てきて、臨席の89歳のM.M.さんが知り合いだったということもあって、おしゃべりが弾んだ。そのうちに「こんな連れがあってよかった。施設に行けと言われたがこんなに楽しいとは思わなんだ」とお互いに楽しさ倍増の日々となった。女はいくつになってもおしゃべりが元気の秘訣なんだということになった。そして約束の1か月が近づいてきたある日こんなことを呟いた。「わしはこれまで長い間声を立てて笑うということがなかった。家族は優しかったけれどみんなそれぞれが忙しくしていてわしのいる場所はなかった。わしは飯がすむとすぐに自分の部屋に行って他の家族たちが楽しそうにおしゃべりしているのを聞いていたもんだった。それでこのごろ年寄りは長生きをしてはいかんのだな〜と思うようになった。家族たちはみな優しいので、施設に入れとはいえないのだから、わしから施設に入れてくれと言わにゃぁいかんのだなぁ・・・と。でも何十年も住み慣れた家から離れるのはつらくて言えなんだ。大好きな家族達と離れるのは決心がつかなんだ。けど、ここならゆっくりと自分らしくおらせてもらえる。ここにおいてもらえるのかね〜。このような年寄りが幸せなっていいのかね〜」「それとここで最後まで置いてもらえるのかね〜。それが心配で・・・」

理事長「大丈夫ですよ。あなたがそれをお望みで、ご家族がそのことを『いいよ』といって下さったら、最後の息を引き取るまでここで私たちと一緒に暮らすことができますよ。私たちはご縁で結ばれた新しい家族のように暮らしましょう」

 1か月半後ご家族との話し合いをして、永住入居の契約が結ばれた。

この1か月半のI.M.さんの永住入居に至る顛末を経験して、お年寄りが90歳を過ぎると身の置き所がなく、あの信州のどこかの姨捨山伝説を思い出すのだと知った。

 後日古老から、「昔『姨捨山』というところが泰阜村にもあったんだよ。この村では年寄りが70歳になるとそこに捨てられたもんだ。」深沢新一の姨捨山の伝説は、信州の山深い部落の90代の年寄りには自分の事のようによみがえるのであろうか。

 その姥捨山伝説を、悠々では「最後までゆっくりと穏やかにいつものように暮らして生きていてもいいんだよ」に塗り替えたいものだと思う。

 森に包まれた我が家の庭の木陰に、楚々としたピンクの笹ユリが満開だ。

 森の精たちに包まれ泰阜の幸せを頂いて 私は今日も元気になる。

 

風の谷〜泰阜村
心はやれども・・・

 5月,今年の春はやっぱりおかしかった。真夏が来て2,3日後には炬燵やストーブが欲しかった。入居者のお年寄り達も体調が思わしくないようだ。そしてこの老体も10周年記念式典の喧騒が収まっても、いつまでも疲れが取れず今回倒れた。薬の数がまたまた増え、年を取るということはこうゆうことなのだと感じ入った。

 我が庭のヤマボウシが真っ白な花をやっと咲かせ、笹小百合の蕾が大きくなってきた。ゆっくりと密やかに初夏の気配が始まっている。あの浅黄色に包まれた里山は深い緑に変わり、悠々の軒先のツバメの巣の雛たちも大きくなった。悠々の庭には雉の親子が姿を見せるようになった。

 新しいお客様たちの訪問が続き、お問い合わせの電話が増えている。私たちは少ないスタッフで頑張る・・・と言うつもりであったが、一番先にやはりこの年寄りの体が音を上げた。心はやれども,である。

 さて,この人出不足の危機をどう乗り切るか・・・。その時に天は悠々を見捨てなかったようだ。30代の山形出身の若者が悠々とご縁が出来,あれこれと助けていただけることとなった。独り親方と言うのであろうか。大切な彼の家庭を守るために、村の重鎮のあちこちに声がけし,彼の仕事を途切れないように村のみんなでサポートしていこうということになった。

 過疎の村にとって大切な労働力が,私たちを助けてくれると言うのだ。大切に守らなければ罰が当たる,と思う。 

風の谷〜泰阜村    
   記念式典を終えて〜春本番〜

 10周年記念式典を終え、あたりが浅黄色から深い緑の森に代わっているのに気付いた。式典は予想よりずっと多くの御来賓や知人友人の御来席を頂き、大阪坂本病院S院長様からのプレゼントで、和太鼓「MaDaRa]メンバーのジャズのリズムを感じさせる軽快な太鼓演奏は、会場のおしゃべりを止めさせるほど魅了ある音楽であった。

 沖縄のW理事長様からの琉球王朝古酒泡盛での乾杯は、記念品の特注の素敵な桜模様の一合升に入った美酒で参加者の度肝を抜き、その後の歓談の糸口となったほどであった。和やかに入り乱れて話が弾み予定よりも長いお時間をお楽しみいただいた感じがあった。

 お帰りには議員さん達から「先生、10年よう頑張った。これからは応援させてもらうでな・・・」とのお言葉を次々と掛けられ、理事長の目がウルウルとなるほどであった。

 10年は私にとって長かったであろうか。開所式の時の疑惑に満ちた視線(当然だが)を思うと、格段の暖かさを感じる今回であった。くじけないでやってきてよかったと思う。私が掛けた願いは「この地に住むすべての人々に安心を与える事」であった。今にして思えば力不足は明白である。しかし10年を振り返ってみればこの地の人々に、自身の暮らしを(大雪で車が埋り、大雨時倒木が玄関を直撃し、凍結した急坂で脱出不可能になった時駆け付けてくれた事等々)丸ごと抱えてもらっていた安心感がある。

 悠々も多くの組合員さん、ご近所さん隣町の地域包括の方々、そして私の大切な友人たちに支えられ励まされて今日まで幸せであった。そのお力を頂いて私は当初の「誰もが安心して住み慣れた地で住み続けること」ができますように、これからも全力を尽くして頑張っていきたいとお約束した式典が終わった。

 皆様本当に有難うございました。そしてどうぞこれからも応援をよろしくお願いいたします。

 

 この度私共の「高齢者協同企業組合泰阜」の「地域交流センター悠々」の諸事業活動に対し、長野県中小企業団体中央会様より 会長表彰を頂きました。本当に身に余る光栄で、この事業がNPO法人でもなく、社会福祉協議会でもなく企業組合を選んだ理由が、「自分達の幸せは、まず自分たちで工夫して自分たちで勝ち取る努力をする。それでも個人の力が及ばないときこそ公的援助で助けてもらう!を信念に頑張りたいからである。」と申し上げたことが、中央会の役員の皆様の納得を得られたのだとお聞きした。

 嬉しかった、感謝でいっぱいで言葉にはならなかった。「これからは県中央会も後押したい」とS副会長からの直々のお言葉も賜った。悠々の新しい希望である。


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