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風の谷泰阜
〜沖縄の8月 沖縄の戦後について

亜熱帯の島・沖縄は、伝統的な祭り 『エイサー踊り』で本格的な夏色に染まるような気がする。

 このイベントに参加すると見受けられる若者たちの嬌声で、

 沖縄行きの機内はまことに賑やかだった。



例年であれば、紺碧の空とコバルトブルーの海が私たちを迎えてくれたはずが、

 大型台風の襲来で、灰色の雲と暗い色をした海が目の前に広がっていて、

 少し不思議な感じがした。



私たちの2回目になる沖縄・ガマ慰霊の旅は、

 台風の余波で例年よりもいっそう蒸し暑さを増し、

 人柱の形をしたやぶ蚊の大群や、ハブとの遭遇の危険をはらみながら無事に終わった。



8月6日と8月9日の「ヒロシマ・ナガサキ」の平和記念行事が新聞の見出しに踊る同じ日本で、

 沖縄における地上戦の凄まじさについて語られることの小ささに、

 何か背筋の寒くなるような思いを 今年も体験した。



「ヒロシマ・ナガサキ」の被爆者たちの苦しみと、

 沖縄の二十数万と言われる戦死傷者たちの、何がこの違いを生んでいるのか、

 残されたガマの漆黒の闇の中で 目には見えぬが 確かにその気配を感じる魂たちに

 手を合わせながら、必死に自問した。



「無知は罪です」は瀬戸内寂照さんの言葉



私は 「6月23日」という日が 

 沖縄守備軍司令官の自決で、組織的戦闘終結の日として

 沖縄中のお年寄りが 『魂魄の塔』 の前に集い

 庭に咲く花を携え それぞれの思いを抱え 静かに祈る日であることを 

 知らなかった。



『魂魄の塔』こそ

 沖縄の非戦闘員であった こどもやお年寄りや、幼子を抱えた母たちが

 軍によってガマを追い出され、 隠れようもなく逃げ惑って殺された挙句、

 戦後 葬ることを禁じられ

 野原に転がっているそれらの遺骨を ブルドーザーで 掻き散らされようとしたとき

 勇気ある住民たちによって 集められ

 塚として 祭られていることを 知らなかった。



有名な『ひめゆりの塔』の すぐ近くにあって

 観光地とは程遠い 『魂魄の塔』 の美しさよ!



戦後の日本の繁栄が

 これらの沖縄の人々の犠牲の上にあることを

 私は 知らなかった。



今もなお、米国統治27年間を 日本人とは認めてもらえず

 年金は27年間の空白を保証しない。



こんなことが許されていいのか!



私は泣きながら

 心のそこから 沖縄の全ての人々に お詫びしたい!



私が これまで あなた方の苦しみについて 何一つ知らなかったことを

 許してください!



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風の谷泰阜村
 〜この地球という星に生まれた
子供たちの未来について

人は皆 この世という名の地獄に生まれてくる のかもしれない.

 TVドキュメンタリー「世界がもし百人の村だったら」に登場してくるのは,

 すべて,この地球という星に生れ落ちた子供たちの姿である.



 その一人ひとりの子供たちは,「この親を選んで生まれてきた」という言葉を聞いたことがある。

  愛されて幸せな人生を歩み始めた子供たちのことである.

  

 親たちが,戦争や,テロや,事故や,病気や,失業やリストラのために,

        自分の子供たちを守れない国がある。

 親たちが,自分の子供の臓器を売り払ったり,

        奴隷や児童売春の標的のように 売り払っている・・・・

 それだけでなく、親たちによる暴力や育児放棄で殺される子供たちが,

       後を絶たない 国がある.

  そして,この子供たちを食い物にして,

  ぬくぬくと栄耀栄華を誇っている 国がある.



 「しあわせには無数の顔がある,しかし不幸はみんな同じ顔をしている」という.



 ここに登場している子供たちに共通している不幸は

  「貧しいこと,教育を受けられないこと」である.



 この地球という星に生まれたすべての子供たちの幸せについて

  「地球村に住むすべての大人には 責任がある」 と思う.



 東京の吉祥寺に住む 一人のカトリックの老神父が,

   もう何十年もの間、たくさんのカンボジアの子供たちを養子にして

   日本の学校に通わせ,高校を卒業するまで養っていたことがある.



 今もなお、そのG神父は,

   1年間の講演料や結婚式やお葬式の司式で得た謝礼の全てを貯めて、

   毎年 カンボジアに学校を建てている.



 カンボジアの村々に 毎年1校建てるのに 500万円のお金が必要だという.



 自分のためには,居候している教会で出されるものを食べさせてもらい, 

      着るものもバザーで余ったもの, 頂き物で十分という.



 G神父に育てられた カンボジアの子供たち全てが, 

      感謝の念を表してくれる訳でもないという.

 子供たちの中には,青年期になると反抗して家を飛び出し,帰ってこない子もいた

     ちょっぴり寂しそうに「男手一つで育てているので・・・」と口ごもる.

 

 それでもG神父は この任務を決して止めなかった.



 今もなお この地球村に住む子供たちの

  80万人が少年兵として 銃を手に戦っている.

  500万人が 安心して暮らす家がないホームレスである.



 一体どうしたら この水の惑星「地球」という星を 地獄のような苦しみから救い出せるのか



 一人ひとりの大人が 考える時が到来している と感じる.



 



 







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風の谷泰阜村
 〜人が死んでいくということ〜

長野県飯田市に住んでいた

 一人のおばあちゃんの魅力的な死に際について、

 その娘さんにあたるKさんがちぎり絵で絵本を作りました.



ご縁があって、「母からのおくりもの」というそのちぎり絵の絵本と出会い、

 そこに描かれた一人の人間の見事な人生の引き際に、本当に感動し、

 心の中に仕舞っておけなくなりました。



☆農家に育ち、農家に嫁ぎ、五人の娘たちを育て

 食べることも 着ることにも無欲で、ぐち一ついわず働きづめだった Kさんのお母さんは、

 82歳の春、腸閉塞で入院手術し、10ヶ月に及ぶ闘病生活を経験しました。



自宅退院後も、人に迷惑をかけたくない一心で、手足のリハビリを欠かすことなく励み、

 家の役に立ちたいと、不自由な身体で台所仕事を引き受けていました。



その2年後、85歳の時直腸ガンが見つかりましたが、『充分長生きしたから もう入院は嫌だ』と

 ストマ(人口肛門)の手術だけを受けて、二週間で自宅に戻りました。



その後も自力を振り絞って這いながら部屋の中を移動していたこのお母さんが

 『もう がんばれない』といって動けなくなりました。



家族は、具合が悪いのに入院させないなんて という世間の風潮の中にあって、

 『二度と入院したくない』 と強く望むお母さんの気持ちだけを考えた五人の娘たちと孫たちは、

 みんなで全面的に支えあって、家で最後をむかえさせてあげようと決めました。



寝たきりになったお母さんは、水分以外の食べ物を口にしなくなり、日に日に弱っていきました。



それを黙って見ていられなくなった家族は、近くのお医者様に往診を頼みましたが、

 『なおる見込みがないから もういいです』 と自ら治療を断わりました。



苦しさのあまり 『早く 仏様になりたい』 というお母さんを腕に抱きながら、

 長女は『おばあちゃん もう がんばらなくていいから 安心してゆっくり眠りましょうね』 と言って、

 子守唄を歌ったり、ゆずり葉のお話を聞かせました。



お母さんに抱かれた赤ちゃんのように 安らかな表情をしたお母さんは、

 『早く 早く』 という言葉を二回残して まもなく息を引き取りました。



お母さんがが亡くなったのは85歳の秋の彼岸、 

 果物の収穫がひと段落し、氏子の村祭りが終った頃、



「お祭りが終わったから もういつ おむかえが来てもいい」と

 葬式に隣組のお世話を受けるのを気遣いつつ、合掌しお題目をとなえながら、



『わしほど幸せ者はいない。家で死ぬことができるから』といいながら、

自らの生き様を みんなの心に残して旅立ちました。





人は一生涯をとおして

 自らの周りの人々との間に、人間としての心を育むことがなかったら

 このような豊かな死を 手にすることは出来ないのかもしれない。



《私はそれを怠ってはこなかっただろうか》 と ふと考えています。







  
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風の谷〜泰阜
人が生きるということ

 今年の3月に66歳で定年退職して3ヶ月半が経過した。
やっぱりなんだかわからないが、多忙な毎日が続いている。
 これまでの人生、ずっと働きながら勉強したり、働きながら子育てしてきたので、記憶にある限り休日にゆっくり休んだという実感がない。自分の前にはいつも自分を駆り立てるような課題があって、妻として母として、そして社会人として、家事や子育てをしながら(手抜きとの批難をものともせず)生きてきた気がする。
 今の私があるのは、私の周りの多くの人々の善意によって守られてきたお陰そのものだと、つくづく思う。
小さい頃からの家庭の事情で、満州からの引揚で僅かばかりの財産をすべて失い、小学校6年のときに、母が轢き逃げにあって頭部外傷で入院し、幼い弟2人と父親の家事を担った。
 中学校のときには、父が経営していた建築会社が連帯保証人倒産に会い、すべての財産を失った。
借金取りから逃れるために、父親は私たちの前から姿を消したが、借金取りは留守宅の母と3人の子供たちを脅すために、毎日通ってきた。お嬢さんで育った母が町に出て小さなお好み焼き店を開き、家族を養った。家の家事は長女の私が引き受け、弟の一人はこのころから村の悪い仲間に入り、そこで育った。長い間家族はみんなバラバラで生活はつらく苦しかった。
 しばらくたってやっと西三河にある建築会社に就職先を見つけた父が、私たちを呼び寄せてくれたが、初任給では貧しく、当然のように高校進学を断念して、私が働いて家族をやしなうことになっていた。しかし、もうお亡くなりになられた当時の中学の担任が、自宅まで訪ねてこられて、「このまま中卒で終わるのはあまりにも惜しい、授業料を出すので高校に行かせてほしい」と両親を説得した。その熱意に打たれて両親は、私を高校に行かせることにしてくれた。
 しかしこのことは、父に過酷な労働を課すことになった。毎晩、過酷な建築現場での仕事が終わってから、自宅で深夜まで内職をして私たちを学校に行かせてくれた。
 程なくしてこの無理な労働が祟った父は、肝硬変で倒れ、長期の入院を余儀なくされ,そしてまた、私たちの生活は苦しくなった。

 今、教育の問題が叫ばれている。世界に冠たる経済大国の日本で、お金が無いために、高校・大学に行けない子供たちが大勢いる。
家族の中に病気の人や障害者を抱えていると、その看病のため、介護のために家族が全力を尽くして働けず、子供たちの教育費にまでお金が廻らないのである。
 この3月に退職した元の大学でも、大半の学生はアルバイトで殆どのエネルギーを費やし、テキストや参考文献を読むゆとりがないのが現状だった。大学構内で倒れそうな学生A君にに「どうしたの?」と声をかけたところ、「この3日間、アルバイト先のレストランが休みで、水以外に何も食べていない」という。取りあえず研究室にあった食べられそうなものを食べさせて、何がしかのお金を渡し「困ったらいつでも研究室においで」と帰らせたが、そのA君は,授業料も、アパートの家賃も、衣類も、食費も全部自分で働いて、「それでもいいから勉強がしたい」と親に頼んだと言ったそうだ。
 このA君が4年生の6月、祖母の介護をしながら働いて家族を養っていた母親が突然亡くなり、パート警備員をしている病弱な父親が、残された病弱な祖母の介護をすることになった。このままでは家賃が払えないと、A君は4年生の夏休みを前にして大学を退学した。豊かな日本、優秀な学生が貧しさの故に、社会の荒波の中に消えていった。

大学教育とは何かが今問われていると思う。
今の大学は資格を取るための専門学校化が進んでしまった。
大学こそは、人間とは何か、人が生きるとは何か、死ぬとは何かについてその時代時代の課題の中で、教員と学生が真剣に突き詰めて考えていく場ではなかったか。
私の人生には、高校進学を必死になって勧めてくれた担任教師がいた。
 50年以上たってみて、その行為が現在の私の行動のすべての根幹を支えていることを実感している。教育とは、『一人の子供の人生そのものを救い上げる役割を担っている』ことを、現場で働く教員一人ひとりが、自覚できるような再教育が必要なのかもしれないと思う。

国政選挙「参議院選挙」がスタートする。
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風の谷泰阜村
対談「弱き者の生き方」から

昨日、築地のがんセンターと数ヶ月前から化膿して腫れていた歯の治療のために2軒の病院の梯子をしました。東京駅の大丸百貨店でふと目に留まった1冊の本を手に取り、そのまま惹きつけられて購入し帰宅するまでの8時間半、帰宅してからも読みふけりベッドに入ったのは午前1時過ぎになりました。
 作家の五木寛之さんと考古学者の大塚初重さんの人生体験を、まさに赤裸々に語ったものです。
御二人の貧しいけれども小さな幸せにあふれる日常が、戦争と共に一瞬で吹っ飛んで、崩壊していく有様を淡々と語りながら、自分が人間として鬼と化す瞬間を体験なさったのです。
 
戦争が終わって平和な日本の中で、死の淵から這い上がるようにして生きた人生の最後になった今このときに、人間としての責任感から、語らずに入られなかった思いが、ひしひしと伝わってきました。
 「ロープにぶら下がった自分の脚に、二人三人としがみついてくる戦友を、私は両足で燃え盛る船底にけり落としたんです。・・・そうやって私は助かった・・・」(大塚)
 「ソ連兵に『女を出せ』と言われると、トラックからだれか女性を押し出すようにして出すしかない。その女性を人身御供にして、我々は38度線を越えたのです」(五木)
 凄惨な状況下では人間は『鬼』になる。
「自分が弱者であるというのではなくて、人間というのはなぜこのように弱く、また同時に強いものなのだろうと感じるのです。」(五木)
 お二人は戦後60年以上もの長い時間、誰にもいえなかったこの罪を抱えて生きてきたとおっしゃって、「戦争は決して起こしてはいけない!」と繰り返しています。
 「人はすべて、この世という地獄に生まれてくるのではないか、その地獄の中で、時として・・・思いがけない歓びや、友情、見知らない人の善意や、奇跡のような愛に出会うことがある。そんなとき、人間に生まれてよかったと、たとえ一瞬でも心から感謝する。その一瞬を、極楽というのではないかと思う。」(五木)
 お二人の生きた言葉の一つ一つが私の心に届いて、化学変化を起こし、「生きていてよかった。
 明日も誰かのために生きていける」という元気を頂きました。








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